大江の「遅れてきた青年」を読んでしまって、今日からドストエフスキーである。買っていたのに、読んでいなかった(途中で挫折した)「永遠の夫」である。
考えてみれば、ドストエフスキーは1800年代の人である。もうちょっとすれば、生誕200年である。
大江の「遅れてきた…」は、なんとも読後感想に詰まる。相変わらずホモ・セクシュアルの描写があるし、強姦せよ、という、人間としてけしからん言葉も出てくるし、「性的人間」にみられた大江独特の固執もある。
日常生活と、長編小説は、似ている。
フッと、ホッと笑って慰安できるようなワンセンテンスが不意に出てくる。
1日24時間の中でも、数秒間、そんな時間が、一瞬があるものではないか? どんなに酷い1日でも。
なんなんだ、これ、と、げんなりしながら暗く読んでいても、ホンの1、2行に、ライトアップされたような言葉たちと、逢着する。
これが、たまらない。
考えてみれば、24ページ中、文字だらけの小説、すべてのページが、ライトアップされた言葉で埋められていては、眩しくて大変である。
淡々と、書き手も自分の中の流れを追い、流れれば感極まるような瞬間もあり、自然とその際書き込まれたコトバが、必然的に後光のような光を放つんだろう。
読み手も、自分の中で書き手の言葉を追い、うまく消化していれば、同時にイケるのだろう。
ドストエフスキーには、その貴重なワンセンテンスがとてつもなく重く、読み手である自分に入ってくる。
といって、そればかりを、ぼくは求めてはイケナイ、と自戒する。
そこに至る迄には、辛抱強く、あの長い、文字でビッシリのページをめくる作業を続け、理解しようと努めなければならない。
大江の「遅れてきた…」に、こんな描写があった、「おお、東京、オレはお前に射精する、お前の地下に無数に繋がる下水管を、オレの精子でいっぱいにしてやる、おお、東京、東京…」
こういう言葉が、ワンセンテンスではなく、ほとんど1、2ページあった。
どういう人なんだろう、大江健三郎。そして、ドストエフスキー。
(2007. 12. 11.)