女は子宮で

「女は子宮で物を考える」という言葉がある。
 女を蔑視した、男から発せられたろうことは、想像に難くない。
 子どもを宿すその場所で、生まれ来る生命のことを考える、つまり人間について深い思慮をもっている、とも考えられる言葉だが、きっとそうではない。

 男に比べて、物事をあまり考えず、直情的である、というニュアンスだと思う。
 確かに、そう思わざる得ない面はある。男・女と括りたくないけれど、私の少ない女性との交際経験から、そう感じざるを得ない部分はある。

 もちろん個人差がある。男にだって、「ペニスで物を考える」ような男がある。もっとも、その場合、ペニスは何も考えていないように思える。少なくとも、私のそれは何も考えていない。
 対して子宮は、何か考えているような気がしないでもない。

 そもそも、考えるとはどういうことなのか。
 私の友人の、「想像するって、すごいイヤラシイことだよなあ」という言葉を思い出す。
 考えることは、論理的作業である。無意識であれ、考える時、ヒトは論理的になっているからだ。
 それで、辻褄の合わぬ、理にかなわぬ思考に逢着すると、戸惑い、「悩む」。

 だが、想像は、自由である。だから身勝手に、どこまでも飛んで行ける。被害妄想までできる。こうだからこうだろう、と、何ものにも囚われず、辻褄を自由に操作できる。

「考える」のなかには、主観と客観が交じり合っている。常識的には、とか、普通は、とか、主観で突っ走れない障害が立ちふさがる。
「考える」は、いわば自己との格闘である。
 
 だから「子宮で物を考える」は、自分は自分と戦っているのに、まるであっけらかんと、戦わずして答を出すような物言いをする女に対する、男の嫉み、妬みの心から発せられた言葉であるように思える。
 
 実際、女には確かに、そのような傾向があると思えないことはない。だが、所詮、私も何も考えないペニスを持った男なのだ。せいぜい、このペニスの言いなりにならぬよう、なだめ、すかして生きて行こうと思っている。