「こうなったのには原因がある」とは、よく考えたものだ。
工場の仕事でも、家の中の仕事でも、ミスをした後、なぜミスをしたのか、その原因をよく考えた。
おしゃべりしていた時、注意力が散漫になって体の支点が偏り、心と体がバラバラになって、あのとき手がこう動いてミスをしたな、と、「あの時」の感じを思い出す。
料理の味付けを間違えた時は、直感に頼りすぎて適量という現実をおろそかにした、あの勢いにあったな、と、「あの時」の状態のことをやはり思い出す。
すると、同じようなシチュエーションになった時、注意することができる。
同じミスを繰り返さぬよう、気をつけることができる。
だが、今回ひどい腰痛になって、この体の不具合は、一体何の「ミス」によって起こったのか?
原因がよく分からない。
この分からなさが、気持ちの上で大きなダメージとなっている。原因が分からなければ、対処のしようがないからだ。
トイレを出て、歩き始めた時、それは来た。太腿の付け根が、ガクン、と、無重力のような状態になった。
力が入らない。あやうく、倒れそうになった。歩くって、無意識のうちに、こんなに力を要するものだったのか、と後から思った。
壁を這って、倒れることは免れたが、この突然の「不具合」さんのご来訪には驚いた。
それまで、お尻の肉が硬いなぁ、とは感じていた。
左足のふくらはぎも硬く、これはいつもの「腰が痛くなるサイン」ではあった。
が、今まではよく歩くことによって、それは解消されていた。
で、前日も前々日も、一万歩や二万歩、歩いていたのである。
今回の腰痛で、思い当たることを列挙すれば(個人的すぎることなので、興味のない方はスキップして下さい)、
・歩き過ぎ。いくら健康に良いからといって、過ぎすぎていたのではないか?
・重い物を背負っていた。ビールやら牛乳やらヨーグルトやらの買い物をし、リュックに入れて1キロほど歩いていた。
・パソコンに向かう時の姿勢、および環境。
炬燵で座椅子にもたれて、文章を打っていると、猫背になるし、足が落ち着かない状態。で、熱中しだすと長時間、ひたすら画面に向かっていた。
・銭湯事件。
腰痛が始まる二、三日前、客のほとんどいない銭湯の洗い場で体を洗っていると、知らない男がわざわざ僕の隣りに来て、熱いお湯を蛇口からわざとのように噴射して、僕の足に熱湯のハネ返りを浴びせ続けた。(蛇口は2つあり、1つは水、1つはかなり熱い湯なのだ)
ガラガラなのに、なんで僕の隣りに? と思った。そう、たまにいる、「ココはオレのいつも座る場所だ」という輩である。
小心者の僕は文句も言えず、別の場所へ移動したが、これはけっこう傷ついた。そして後から思い出しては、うじうじと、ストレスを増加させていた。
腰は、精神的ダメージをよく受ける部位らしい。
その他、こまごましたことが思い当たる。
夜、眠れぬ日々が続いていたこと、小さなことにやたらクヨクヨしていたこと、先のことに対する不安、もう今年も半分近くが終わろうとしていること等々、あまり自分を朗らかにさせる要素がなかったように思える。
時間。そう、時間を敵に回していた。
そんなに早く、進まないでほしい。
自分はこの半年、何をしたのか?
無気力、自堕落にもなっていた。部屋だって、片づけたってどうせ散らかるのだ。
そもそも、片づけるだけの収納場がないのではないか? タンスもなければ、食器棚だってない。
衣装ケースやハンガーラック、カラーボックスがその代わりをしている。
チャンとしたタンスがほしい。チャンとした食器棚がほしい。しかし、…
要するに、自分は何か、不幸であるような気がしていたのだ。
床に伏せるしかなかった間、頭から離れなかったマンガの一コマがある。
それは子どもの頃に読んだ「ど根性ガエル」で、一向に回復しない病気の少女について、主治医がその親に、「あの子には治ろうとする意思が、無いようなんです」と困り顔で言っている一コマだった。
意思。
「病気を治そうとする意思が本人になければ、どんなにこちらがガンバッテもダメなんです」
と、その一コマは言っているように僕には感じられた。
いまだに、あの一コマが頭から離れないのは、
「生きようとする意思がなかったら、死んでいくだけなんです」
と、自分の中で、あのマンガの中の医者の言葉を変換して解釈してきたからだと思う。
そう、体に何か不具合が生じると、頭の中は悪いことばかりが思い浮かぶ。
前向きになど考えられない。
いずれ治ると思っているつもりでも、今「動けない」不安と、今までしてきた自分の悪い行ないばかりが思い出された。
(2022.4.30.)