「荘子」に、こんな話があった。
はねつるべという、「最も単純かつ普遍的な人力による揚水機」(コトバンクによる)を使い、水を汲んでいた人間に、通りがかった者が「それより、便利なものがありますよ。それだと、時間もかかるし、大変でしょう」と話しかける。
「それはどんなものかね」と、そのひとがたずねる。
説明すると、「ああ、それなら知っている。でも、そんなものは、わしは使わないよ。そんな便利なものは、人を堕落させる。こうして水を汲むほうがいいのだ。さあさ、邪魔だ、あっちへ行ってくれ」と、すげない。
親切心から教えてやったのに、なんだこの男は、みたいに通りすがりの者は思い、その場を去る。
そのような話を初めて目にしたのは、何十年か前の朝日新聞の天声人語だった。
妙に印象に残る話だったが、この話の出典が「荘子」からだったと知ったのは、つい二、三年前である。その本、「荘子」を読んでいたので。
… 読んでいて、最初、その便利なものを拒否した人間は、狭隘な精神の持ち主だな、と感じた。
便利なものは、使うがいい。頑固に、昔ながらのやり方に固執して、現代を拒否しているように思えたからだ。
ところが、この頃は、そうも思えなくなってきた。
「老子」なども読んでみれば、文明への拒否、便利な物への否定が、確固として、単なる拒み以上の大きな意味があるように感じられた。
そしてこの便利な物で「はねつるべ」を調べれば、最も単純かつ普遍的な、という形容詞が被さっていたのである。
便利なものは、人を堕落させるかもしれない。
だが、それは「物」であって、精神面にまで作用されるかどうかは、そのひとの自己に対する問題であって、一概に人を堕落させる、とは言い切れないだろうと思った。
だがその後、所ジョージが「便利なものに、人はまかれちゃうんですよね」みたいにテレビで言っているのを見て、そうなのかなぁ、と思った。
また自分自身を省みて、やはり便利なもの(端的に、つまりパソコン)に頼っているなぁ、と思った。
便利な物にまかれても、堕落するかしないかは自分次第だ、と考えてきたが、そして自分がダラクしているかしていないかといえば、どうも「していない」と言える自信がない。
が、それがパソコンとか、便利な物のせいである、とも言えない。
自分次第であることには、変わらないからだ。また、どんな時代であれ、自分次第であるということには、変わらないはずだからだ。
どんな時間に生まれていようとも、しっかりしなければ、と思っていただろうことには、自信がある。
そして、その時しっかりできたとしても、もっともっとと、欲に駆られていたことだろう。
欲があることは、けっして悪いことではない。
善悪の彼岸の、こちら側。悪でない、と判断したなら、その善へ、欲を手なずけ、欲の正しいオーナー、支配人に、自己がなればいいのだ──