伊豆の、修善寺の、浄蓮の滝を見て、その駐車場辺りから見えた「伊豆の踊り子道」とかいう(曖昧な記憶だが)道を、歩いたのである。
暑かった。Tシャツが、ほんとに絞れば水が滴ってくるほどに、汗で濡れに濡れた。
しかし、結局、歩くしかなかった。
で、歩いていたために、長年、自分の内の、どこかに抱き続けていた疑問も、晴れたのだった。
実に、たいしたことでもない。だが、嬉しかった、としかいえない。だから、嬉しいことだった。
まったく、何ということもない、話ではあるのだが。
何キロ歩いたのか忘れたが、その帰路で、地元の人と思しき、おじさんとすれ違ったのだ。
歩いている時間、絶え間なく、幻想的な鳴き声が、その道の左右に林立している木々から、聞こえていた。
背高い木々のために、小さくなった空を見上げれば、そのままどこか別の世界へ誘われそうな、だからどこか、人を狂気へも誘うような音だった。
だが、そこには何か、懐かしい慰安のような気配もした。
これは、何という鳥の鳴き声なんだろう。いつかも、聞いたことがある。
特定の地域にしか、いない鳥なんだろう。
連れは、鳥ではなく、虫だろう、と言っていた。
そういわれると、虫のような気もしたが、虫よりももっと、血の通った肉体をもつものの声のように思えた。
ただ、ずっと、いつの頃から、ずっと気になっていた音であることは、確かだった。
この音は、どう形容すれば、ふさわしいのか、五十音のうちのどの文字でも、表せない音だと思えた。
ぼくは、要するに、この声の主の正体を、一生知ることなく、死んでいくんだろうな、と、思っていた。
どうしてか、そういうものなんだ、と思えてならなかった。
だが、その道の前方から、くだんのおじさんが歩いてくるのが見えたのである。
「こんにちは」すれ違う時、おたがいに、挨拶を交わす。
何でもない、何でもなさ過ぎるようなことだから、訊くのもためらわれたが、ぼくは遂に訊いた。
しかし自分でも思いがけなく、不意に自然のように、訊けた。
「すみません、これは、何なんでしょう、」 空の、上のほうを、くるくる回すように指差しながら、「この鳴き声は…」
するとおじさんは、実ににこやかに笑って、こう言ったのだった、「ああ、これ…、ヒグラシですよ。」
「あ、ヒグラシ!」 ぼくも笑って言った、「ヒグラシですか!」
「ええ、…」と、おじさんは、タオルで顔の汗を拭きながら、にこやかに笑いながら、少しだけ何かヒグラシについての説明をしてくれたが、忘れてしまった。
ヒグラシ。子どもの頃、昆虫図鑑で見たことがある。
たしか、生息地域と、体長が何mm~何mmであるか書いてあった後、「カナカナカナと鳴く」とあったのを覚えている。
この声は、この音は、「カナカナカナ」と、いい表されていたのだった。
「いやぁ、ずーっと、これは何の鳥の声なんだろう、と考えて歩いていて…」と、ぼくはおじさんに、訊いた理由を、その必要もないかと思いつつ、急に恥ずかしくなって笑って言った。
おじさんも、ああ、そうですか、と可笑しそうに笑ってくれた。
ぼくは礼を言い、辞儀をし合ってそれぞれの方向に歩き始めながら、別れた。
「ヒグラシだったんだ…」
「ヒグラシねえ…」連れも、笑っていた。