コロナ禍。
外に出るのが罪のような気がしつつ、写真美術館へ、家人と。
抽選で当たった鑑賞券の期限が今週までだったので、行ってきた。
街は妙だ。人はいるけれど、みんな警戒し合っているというか…。すれ違いざまに大きな咳でもされたら、息を止めてさっさと歩きたくなる感じ。
歩いて30分ほどの所にある写真美術館。しかし、中は閑散。いや、誰もいなかった。受付嬢が、ぽつんといるだけ。
館内には喫茶店もあった。オーナーらしき女性がひとり、手持ち無沙汰気に客席で新聞を読んでいた。
こんな時期に、来る客(私たち)が、おかしいのか。開館している方がおかしいのか。
中途半端な感じのまま、ぐるりと写真を観て帰る。
「いつどこで撮ったのかは、それほど大切なことではないし、なぜ撮ったのかなど、どうでもいいことだ。時の流れの中を漂う船、それが写真だと思う」
パンフレットに、尾仲浩二さんが書かれている。
船つながりで、銭湯のことを書こう。「濃厚接触」の場でもある、銭湯。ここに通うのも、「不要な外出」になるのだろうか。
奈良では、特に自粛を大きく呼び掛けているわけでもないけれど、微妙な感じがする。
「銭湯は大丈夫らしいですよ。これだけ湿気があると、飛ばないとか。脱衣場は危ないかもですけど…」
「…ほんとかなあ」
仲の良い老人と、湯船に浸かりながらそんな話をしたりする。
「見えない」というのは本当に厄介だ。いくらでも不安になることができる。すべてが、「ほんとかなあ」という感じになる。
スーパーに買い物に行っても、人が多ければ「濃厚接触」になる。人が集まるところ、みんなそうなる。要するに、「間隔を置かないで」人が集まる場所が危険であるということ。
しかし、「見えない」以上、どこにそれがあるのか分かったものではない。
人のそばでは、咳、くしゃみをしない。する時は、タオルなり腕で、口をふさいでする。大きな声で喋らない。これだけは心掛けて、外に行く。一体いつまでこんな情況が続くのか「わからない」ことも、憂鬱な気分を蓄積させる。
疑心暗鬼になって、人を怖がるのも、気持ちのいいものでない。
ウイルスは「現実にあるもの」なのだから、こちらとしても、その「あるもの」に対して現実的な行為をする以外、策がない。うがい、手洗い、マスク…。
人と接することは、仕方ない。先日も、歩道脇に人がうずくまっていたので、見過ごすわけにいかず、すぐ傍に行って声を掛けた。それも運命だと思う。
まわりがどうあれ、自分がただ、できることに注意して生活を営む。なるべく人さまにイヤな思いをさせぬよう…。
(2021年、春先頃?)