今、自分は奈良に住んでいる。特に、何も考えず、住み始めた。
そこに恋人がいて、友達がいたから。
それまでは、愛知にいた。そこに、仕事があったから。
それまでは、千葉にいた。その妻の実家があり、共働きだったので、また私が頼りなかったので、という理由が大きかったと思う。
その前は埼玉、岐阜、神奈川… やはり知人がいたり、仕事のためであったり、「ここ、いいね!」と、一緒に暮らす人と住む場所を探したりして。
住む場所には、住む自分の、何らかの意思が働いて、その場所を選んで来たようだ。
だが、一つだけ、自分の意思が働かなかった場所がある。生まれた場所── 東京だ。
気づいたら、自分はそこにいた。
物というものは、目的をもってつくられるらしい。私も、一つの「物」である。
だが、私は何を目的につくられたのか分からない。その造物者も知らない。
気がつけば生きていて、歳を取り、その「生きる場所」の選択だけをし、現実的に引っ越しを繰り返し、精神的にも彷徨い、その場所を選んできた、と言えるだろう。
だが、そもそも私は自分の存在理由を知らない。何のために生まれ、何のために死んでいくのか、わからない。
この「ために」のために、何か、考えているかのようである。
些細なことを、自分の中で肥大化し、ひとりでさも絶望の淵に喘いでいたり、もうダメだと、やはり絶望の中に沈む。
これも、「意味のないもの」に意味を付けようとする、悪あがきのように見える。
意味がないから意味を付けられる。「無意味」という意味さえ付けられる。
意味の意味さえ知らず、意味を付けよう、見つけようとする。
自分がなぜそうするのかも分からずに。
なぜそうするのか分からない。それが生の本質、生に本質があるとしたら、理由も知らず、わけもわからず生きているという、それが生の本質であるように思える。
だが、だから考えるのだ。考えることができるのだ。
そこに意味など、ほんとうには付けられないからこそ、もがき、苦しむことができるのだ。