そして頻尿

 困ったことついでに書いてしまえば、頻尿に困っている。

 夜中に何度も目が覚めて、覚まされる、が正確だ、尿意によって覚まされてトイレに行くことになる。行かざるをえない。

 そんなに、困ることもないのかもしれない。行けば、それでその時、とりあえず終わるのだから。

 困ったように思えるのは、「朝までぐっすり眠れない」と考えるからで、ぐっすり眠ることをヨシとしているから、ぐっすり眠れないことをワルし、としているのだ。

 寝不足だと頭もボーッとする気がする。すると、同じ道理で「ボーッとしない状態」をヨシとしているから、ボーッとする状態がワルいような気になる。

「理想の状態」があるから、「理想でない状態」がある。

 そしてその「理想の状態」は、未来にでなく過去にある。「昔は、以前はこうだったから」「こうだったのに」の過去を見て、過去と比べて今を残念に思う。

 まことに残念なのは、今の状態を残念に思う自分であって、べつに頻尿のせいではないとも思える。

 身体は変化し続ける、運動をし続けているし、それはこちらの意思とは無関係に存在しているかのようなものである。もし自分の身体を意のままに操れるなら、歳もとらないし病気にもならないだろう。そのことは、ゴータマさんがとっくのとうに指摘している。

 現状を「受け容れられない」は、何やら、惨めな、まるで不幸になったような気にさせられる。

 それも過去と比べるからであって、──しかし、でも比べてしまう。

 過去によって、自己がつくられてきた、「これが自分である」とするようなものがつくられた、その意識が持てるようなった、それはおそらく、そうだろう。

 だが、そんな意識とは無関係に、存在という存在が、存在しているのだと思う。

 だが、その存在を存在として認知できるのは、この「自己」なるものがなくてはならない、というところが、なんとも困ることである。

 だってその「自己」なるものが、一体何であるのか、ほんとうには知れないんだから。

 知らない者どうし、という言葉があるけれど、自分というものがまず「知らないどうし」であるが如きだ。

 そんな、「ほんとうには知れない自己をもった者どうし」が、あれやこれやと関係し合い、成り立っているかの世界に見える。

 ああ、自分はほんとうに生きているのだろうか。どうしたところで、ここに突き当たる。