再び、漱石…
「行人」が心に残っている。「猫」も面白かった。漱石を新潮文庫でほとんど読んで、しかし絶えず気になったのは、その言葉の一句一句から「無常」といったものを、その字句の向こう側に、常に感じられたことだった。
虚空を見つめる、とでもいうような視線。
虚無、もどこかにありそうだったが、漱石のそれは虚無ではなく、「空」、つまり自然のものに対する視線であるように感じた。
虚無は、それが生成するまでに、何らかの人為的な作為がはたらく。
だが、虚空はそれ自体で、自然として既に在るものである。その空なる自然を、漱石はいつも見ていたように思う。
なぜ存在しているのかということは、考えない。いや、考えられない。人智を越えたところのものであるからだ。
だが、それを見つめ続けたところに、漱石の凄さの根っこがあるように思えてならない。
漱石は人間を描いた。「こころ」を描いた。小説の人物の一挙手一投足を描くにしても、その目線は常に「こころ」にあったのではないか。恣意、放逸、思うがままにならぬその心を、見続ける勇気と忍耐を、漱石は文に向け、構築させ続けたように思う。
自身が目にし、感じた不確かなものを、確かなものとして書く。
それはドストエフスキーにも感じたことだった。だが、ドストエフスキーにはキリスト教という神があった。
神をもたなかった漱石は、それを自然のうちに見ていたように思う。
あの髭は、どこかニーチェを髣髴させるものがある。だが、ニーチェの視線は、あまりにも一点を強く見つめ過ぎている。
漱石の視線は、まるで何も見つめていないかのようだ。
しかし、虚空と一体となっては何も書けなかっただろう。
虚空を見つめながら、またそれを見る自己を見つめながら、嫂がどうの、苦沙弥先生がどうのと書き続けたように思われる。
その淡々とした静謐さ、力強さよ。