「書く」

 要するに、ぼくは身勝手な人間だということだ。自分のことしか考えていない、少なくとも文を書く上では、言ってしまえば(都合よく、飾って)自己セラピー、自分のため以外に書こうとしていない、ということだ。

 ここに、「人間」が出てくる。人間は、言葉で考える。論理をつくろい、考える。大江に言われるまでもなく、これは事実であるらしい。

 ならば、この言葉を、誠実に、自分に向かって、己のために、書けばいい。自己整理、形にならぬ自己を形にできる、かなり強力なツール、と思う。

 ネットは、ただ「見られる」だけではない。それを利用し、自分のために、ほんとうに自分のために、使う。

 せっかくこんな場があるのに、場、ともいえないが、人間として、人間だから使える言葉を、自分のためにもっと駆使していいんじゃないか。あまりにも、「他人の目」に引っ張られている人が多いように思えて、それは残念だ、と言いたかったのだった。

 自分のために。自分のために。

 ほんとうに、自分のために。

 だいたい、言葉に形にする時点で、自分の知らない他者の目が介在しているのだ。自己の目、この目にする、自分が表現した・されたものは、それをつくっている時点で他者を意識しているのだ。

 自己の目の中には他者がいる。かてて加えて、さらに他者の目を、さらに気にする必要はない。無自己になる。自己のために書いて、なぜ無自己になる必要があるか。

 乗っ取られてはいけない。頼りない自己だとしても、この自己に頼るしかないのだ、根本的に、最終的に。もう、わかっていること、わかっていたことだろう、それは。

 ならば、それをすればいい。誰も、止めやしない。だって、書くこと、これが誰の迷惑になるか。気に入った人に、読まれればいいし、気に入らん人は読まなければいい、それだけの話。いや、読まれる読まれないは、どうでもいいのだ、ほんとに。

 わかる人に、わかればいい。伝わる人に、伝わればいい。万人に、そうなるなんて、あり得ない。今までの交友関係にしたって、そうだ。わかり合え(そうな)人と友達になって、わかり合え(なさそうな)人とは、親しくなれなかったではないか。

 しかしまず、自分自身と仲良く、友達になることだ。わかる人、自分をわかろうとする人、自分が自分自身を知るために、自分で自分を知らせる、自分に自分を伝えるために、自分と親しくなる人になることだ。

 まず、そこから始めよう、と、自分に言う。