キルケゴールは思索を文に開示するために生まれてきた(と自分に運命を課した)ような人だから、その創作にレギーネへの恋心は大きな力となって、彼に賦与していたことだろう。
彼は知っていたのではないか。婚約をした、そこまではよかった。だがこの約束を実際に果たすとなったら── その生活が自分の大切なものを奪ってしまうことを。
彼に、いちばん大切なもの。レギーネに恋した、本当の本当にレギーネが好きだった。でも、でも、だ。
レギーネのことを想いながら物を書く時、彼はどんなに生き生きと、素晴らしい気持ちでいられただろう!
自分の生活が、彼女に塗り染められ、──それはあくまで彼がひとりで想い、焦がれたからこそ、できたことだった… その想いがどれだけ彼に生気を、そして創作に、どれだけ力を与えただろう!
彼は、このままの状態でいたかった。だが、そのままの状態でいることも彼に苛烈な苦しみに違いなかった。
彼は知っていた。結婚しても後悔し、結婚しなくても後悔することを。
確かに、婚約するまではどうしようもない流れであった。止めどもなく溢れる恋情、彼自身に止められない、レギーネを想う心の迸り。
婚約するまでは。婚約するまでは、順調に川を下った。何か、レースでもするような気分で。激流を、彼はオールの操作も鮮やかに。
だが、終わってしまった。婚約をした、それで、終わってしまった。
まだ始まってもいない二人の生活。でも、確かに彼の中では終わっていたのだ。
これは、彼にとっても初めての体験だった…。
そしてもう戻れない。
レギーネは別の男、キルケゴールと知り合う前から家族公認の「いいなずけ」のような家庭教師であった男と結婚した。
だが、キルケゴールはその後もレギーネに手紙を送る。封筒の宛名は、旦那さんに向けて。
旦那さんが封を開けると、レギーネへの手紙が入っている。だがキルケゴールは、その手紙を彼女に渡すかどうか、その選択を彼に一任している。
旦那さんは、もちろんその手紙を破り捨てた。
キルケゴールにとって、レギーネはかけがえのない女だった。と同時に、レギーネを想う自分の気持ち、これもレギーネ同様に代替えのきかない、唯一無二のものだった。レギーネが、唯一無二の、終生愛した女であるように。
確かに、椎名麟三のいう通り、キルケゴールはレギーネを本当に愛していたから結婚しなかった。それは全き事実、嘘偽りのない真実の気持ちだろう。
34歳で自分は死ぬ、と思い込んでいたキルケゴールの、「死」もきっと大きく影響しているだろう。
だが、とにかく書くこと。これを薄ませることを、彼は恐れた。その材料に彼女が、それまで力を彼に与えてきた彼女が(彼が彼女の存在を一方的にそうした力に変えていたとしても)、彼女との生活が、なってしまうことを恐れた。
彼は、彼女を選び、同時に、自分を選んだ。
キルケゴールの婚約破棄は、身勝手な、臆病な、彼の我意の為せたわざではない。
そうして彼は創作を続けたのだと思う。レギーネを、常に心に置きながら。
彼女に、彼の、彼が彼であるが故の、彼であるということが、きっと彼女には伝わっていた、理解されていた、と僕は思いたい。