日常

 今日も暑い。ほんとにエアコンなしではいられないようになってしまった。なくても、生活、できていたはずなのだが。

 しかしほんとに10年や20年、60年や80年なんて、宇宙ができたり地球ができた頃を思えば、0.0000…目にも見えないほどの短さだろう。

 そこに住む人間が、わざわざ自分から住めなくさせる。暑い暑いと言ったところで、自分がまいた種だ。

 と書きながら、私はそれで何もしない。ただこんなことを書いているだけである。そしてこの自分が分からなくなる。逃げたくなる。要するに、「何もしないのがよい」あの老荘思想を、この「何もしない自分」(地球とか環境とか、大きなことに対してでなく)に自己都合で当てがっているだけではないか、と。

 ソクラテスはこうだったとか、モンテーニュがどうだったとか、そういう逸話や彼らが遺した立派な言葉も、ただ私が自分の、自己正当化のために用い、使っているだけではないか、と。恐ろしい不安に駆られる。

 私は一体何であるのか。私は一体何なのか。こんなことを考えても、しょうがないではないか。でも、考えている。この世界、目に見える世界は何なのか。それを考える時間がある。自分は、人間は、と考える時間がある。それをこうして文字化する時間もある。

 でも平和とか戦争とか、どうして人間は、とか、そんなことを考えるよりも、今をほんとうに一生懸命生きている人の方が、よっぽどすごいではないか。

 世の中が間違っているとか、自分は間違っていないとか、正しいとか正しくないとか、そんなことよりも。

 この「社会」…人が複数集まって、理不尽なことに耐えたりしながら一つ所にいる… その場所のなかで、一生懸命やっている人の方が、よっぽど私には偉く見える。

 ただ、間違った一生懸命さでなければ、と、やっぱり「正しい」とか「間違い」に私はこだわってしまう。

 どうしてこんな、ばかみたいなこだわりがあるのか。「自分は正しい」なんて、ただの自我だろう、と思うのに。

 どうしてこんな自分にこだわっているのだろう。

 何を守ろうとしているのだろう?