子どもたちへ(8)

 だからもう、何も言えないよ、伝えたいことなんて… 何もエラそうに言えることは何もないよ。

 反省だけだよ。私たち「大人」にできることは。きみたちに伝えられるものがあるとしたら、「これが私たちのあやまちだった」と認め、何がいけなかったのか、仔細に点検することだ。

 これだけ「生きづらい」社会を私たちはつくってきた。自殺をする人は相変わらず多いし、変な犯罪も多いよ。引きこもりなんて当たり前だよ、誰もこんな社会に喜んで飛び込んでなんか行かないよ。

「仕方なく」働く。「仕方なく」学校に行き、「仕方なく」生きてる── そんな人に、なってほしくない。

 でも、「こうしたらいい」なんて私には言えないのだ。

 私がきみたちに何か影響を与え得るとしたら… 「こんな自分もいたんだ!」と、きみ自身が自分を発見する、そのきっかけをつくることしかできない。

 自分を発見する。これはどういうことだろう? きみは一人だ。その身体は一つだ。きみはその身体で、毎日何かしている。生まれてから、ずっと。これからも何かしていくだろう。変わり映えのしない毎日に、いやな気持ちになるかもしれない。

 今更、自分なんて、と思うかもしれない。もう見飽きたよ。それに自分なんて、一人じゃないか。もう発見してるんだよ。いやというほど、見てきたよ… きみは、そう思うかもしれない。

 確かに、肉体の自分は一つだ。ところが、精神の自分は全然ひとりじゃない。そもそも、「1」とするところ、そう意識させるものは、「1」以外のものを意識するから、「1」と意識できるんだ。

「0」が生まれた所かもしれない。最初は、みんな0だった…

 親も0だった。教師も、大人も、みんな0だった。

 みんな、そのことを忘れていく。そしてエラそうに、きみたちを「教育」する。

 まったく、こう話していても、気持ちが悪くなるよ。おまえたちは何をしてきたのだ? 一体、何をそんなにエラそうにしているのだ?と問いたくなる。

 大人たちの多くは、何も考えていないに等しい。「前の人がこうしてきたから」「こうしろと言われたから」と誰かまわりの人のせいにして、自分のせいだと思わない。

 なぜそれに従う自分であったのかを考えようともしない。それさえ、「こうなっているからだ・こうなっていたからだ」とする。

 これが、「考える」ことになると思うかい? そうして、私の見てきた大人たちは、ただいたずらに歳を取っただけだよ。せいぜい「こんな立派な家を建てた」「こんな地位にいる」そんなところに自分のよすが・・・をなすりつけて、虚しさを埋めようとばかりする。

 そんな人間に、なってほしくないんだよ。繰り返してしまうけれど…