天根が殷陽の地に遊び、蓼水のほとりまで来た時、ひょっこり無名人に出会った。天根は、だしぬけに無名人に尋ねた。「天下を治める道を、おうかがいしたいと思います」
すると、無名人は答えた。
「さっさと行くがよい。お前は卑しい人間だ。何という不愉快な質問をするやつだろう。わしはこれから造物者のところへ行って、友だちになろうとしているところだ。
それにも飽きたら、今度はまた、あの果てしない大空のかなたを飛ぶ鳥の背にのり、宇宙の外に出て、物一つない無何有の郷に遊び、広々とした壙埌の野にいたいと思う。
それなのに、お前はまた何か得意な芸でもあって、それで天下を治めようとし、わしの心を揺り動かそうとするのか」
しかし、天根はそれでも断念しないで、再び無名人に尋ねた。無名人も、やむなく答えた。
「お前の心を、欲望にわずらわされない淡白の境地に遊ばせ、お前の気を静まり返った寂莫の世界に没入させよ。
すべて物の自然に従うようにし、私意をさしはさむことがないようにせよ。このようにすれば、天下は自然に治まるようになるだろう」
── 無名人とは、隠者のように生きた荘子のことだろうと想像する。また、このお話も「天下を治めるには?」から始まって、「無為自然」の荘子の思想を説いている。
天下… よく織田信長などの戦国武将が「天下を獲る!」とか言っていたが、そんな意味での「天下」はとっくに死語。
で、今に引きつけてみれば── 刹那的な、たとえばSNSでバズるとかランキングで1位になるとか、「他と比べ、それより上に行く」ことで「余は満足じゃ」となる場合が少なくない気がする。YouTuberに憧れる人も多いらしいし、さしずめ「ネットで天下を獲りたい」か。
しかし荘子、パッと見は現実離れしたことを書いているように見えるが、自分にはそうは思えない。現実をつくるものを、書いているように思える。
現実をつくるものを現実に書いた「荘子」、それを現実に見ている自分は、現実を見ている…
「そんな考えなさんな」荘子に、そう言われる気がする。
あなただって、いっぱい考えたくせに。