Google Adsenseとかいうもので、ブログの収益化を計ろうと無謀な目論見を企てた頃、まずはそのGoogle様にお伺いを立てねばならなかった。要するに審査に合格しなければダメですよ、ということ。その際、ぼくの見間違いでなければ、「ロシアとウクライナの戦争に関する記事はタブーです」というような注意があったと記憶する。タブーという言葉は使われていなかったが、とにかく書いてはいけません、というニュアンスだった。
肝心な、いちばん書くべきこと、考えるべきことをどうして書いてはいけないのか? 結局ぼくのブログは審査に落ち、アフィリエイトを目指したアマゾンの審査も通らず、ショックではあったが、ああ自分の進むべき道はそっちではないんだなと改めて痛感体感、確認し、もと来た道に戻ったという経緯がある。
「にほんブログ村」とかにも登録したが、違うなぁと思った。多くの人の書く、目指す方向、「みんな」の進んでいる方向に、どうしようもない異和感をもった。そこに参加している自分が恥ずかしかった。多くの人の目的は、いかにもっと多くの人に読まれるか。これだけに尽きているように見えた。全く何の疑問ももたずに、それだけのために向かう大行列… せっかくの言葉、表現の場が、いいね目当てにばかりあてられている、そんな印象に嫌気がさすのを止められなかった。
なぜみんな、ウケばっかり狙うのか。そんなために創作して、いやそれは創作でなく模倣だ、どうして多くの人は「これがウケるんだ」となったら、そっちばかり行くのか。
《行かされている》のかなと思った。
大江健三郎の本によれば、広告── 購買意欲を掻き立てる、要するに「考える」「考え込ませる」文章はその意欲に水を差す、なるべく人を考えさせない、娯楽的な内容の文章が広告主にとって望ましい── 広告に支配されている社会、ということになる。
こっちの方向へ行け、と、だれかが操作している、そんな見方があっても特段おかしいと思えない。要するにお金なのだ。どんな悪心をもったって、儲けたもん勝ち。モノ最優先。物質第一、お金は物質のすべてである、と。
結局「ここに登録しないとPV数が上がりません」といわれるブログ村も、もう一つのランキング何とかというのも辞めた。お金は欲しかったし、多くの人に読まれたいとは思ったが、その「場」にいるだけで気持ち悪かった。生理的なものはどうしようもない。