日本は私小説が多いらしい。エッセイ(随筆)も、モンテーニュより以前にこの国では書かれていた。
数え切れないほどの人間史、もっと前から書いていた無名人もいたことだろう。
文学自体、知る限り紀元前8世紀のホメロスが今も残っているように、どうもヒトにとって欠かせぬものらしい。ヒトは言語によって考えるというから、人間=言葉、ワンセットであるようだ。
「この世もかの世もない」とはブッダの言。なんとも、励まされる言葉だ!
この世もかの世も人間がつくったものに過ぎず。天国も地獄も、死んだらどうなるとか、あの世はとか、そんなものはないのだ。
ヒトがヒトに伝えていくこと。言葉をもって。この仕方で伝承を紡いで来た生物。
なんとか繋いで行ってほしいものだ、人類。核、爆弾、自然破壊。ここで歴史を終わらすでなく…
《ワレ思う、故にワレあり》だとしても。
何が言いたかったんだっけ? ああ、もう「私は」という言葉をあまり使いたくない、ということだ。
主語。ワタシハ、ワタシハ…。もう使い過ぎた!
ワタクシズムはもういい。もう、げんなりだ。
「私」なんて、ないようなものだ。いや、なかった。「私」を埋めるものは「私」でない、「私」でなかったものばかりで、「私」はその湯水を注がれるコップ、桝、桶、器で。
注がれて、ようやっと「私」であるかのようになっているだけで。
「私」が「私」と思っている「私」は。
「私」の実態は。あの人の「私」もこの人の「私」も。
「私」を「私」とする実態は。
ヒトが自己と称する「私」の実態は。
容器だけはあった。それが存在だ。
誰もがこの容器を抱えている… だから傷つけ合ったり殺し合ったりしてはいけないんだ。
それは「私」を傷つけ、殺すことになるから。
誰もが「私」を愛しく思い、「私」つまり自分を愛しているんだから。
だから傷つけてはならない。
自分で自分を、自分で他人を。
自己=「私」=他者=言葉…
私(これはこの私だ)に限って言えば、もう「私は」からモノを言いたくない。