しばらく適当になっていた瞑想、また専心してやり出す。
腰が「おかしいよ」と言ってきたので。
また半結跏趺坐、姿勢を正し…
やはりモーツァルト、クーベリックさんの「大ミサ曲」をもっぱら繰り返し聴きながら。
この演奏は実にいい、ソプラノの二人、テノールのペーター・シュライヤーさん、そして最後にしか登場しないバス。合唱の人たちも、ほんとに心がこもっている。
この曲は、何やらモーツァルトが自主的に作曲したとか。依頼されず、自分から作った曲だとか。
丁寧で、繊細で、大きくて、素晴らしい曲だと思う。何度、いや聴くたびに、涙ぐんでいる… オーボエ、フルート、バイオリン(コンサートマスター?)、重厚さ、音の重み、掠れ方、チェンバロ?の音も。
モーツァルトの楽譜は真理のようで、その象られた理、ことわりの道筋を演奏者たちが辿っているように感じられる。楽器は、忠実に。歌い手さん達も、誠実だと思う。現代では、自分が、自分が!と目立ちたがる歌い手が多い気がするが、この演奏での歌い手さん達は、音楽に対して真摯に向き合っているように見える。敬意、畏敬、音楽に対する誠意のようなものが、… 美しいと思う。
瞑想の話。
「荘子」に、「頭のてっぺんから入った息が、カカトから抜け出る」といった呼吸の仕方が書かれていた。
最初、これを読んだ時、ハナでセセラ笑っていた。んなこと、あるかあよ。だいたい、荘子は無為自然を唱えた人だ。座禅みたいなことなんか、するわけねーじゃん、と。森三樹三郎さんの解説にも、これは「有為自然で、後期の荘子学派が書いたものだろう」とあった。
だがだが。半結跏趺坐で姿勢を正そうとした時、どうもうまく行かない。鼻から入って、鼻から出て行く、この呼吸の繰り返しをジッと見つめるのが瞑想なのだが、何か物足りなさというか、しっくり来なささがあった。姿勢も、何か真っ直ぐになっていないような。
で、「頭のてっぺん」と「カカト」(おケツの下)の意識をもって、呼吸を見つめてみた。
もちろん、頭の上から、おケツの下から、呼吸が出入りするわけがない。
だが、意識、意識の凄さよ、意識をその二ヵ所に置くと、ホントに頭のてっぺんから、おケツの下から、呼吸が出て入って来る、そんな気がするのだ、実際。
すると自然、姿勢も良くなった。自分は穴のあいた棒みたいなもので、この上から下へ、下から上へ、この胴体を通じて、呼吸が真っ直ぐ通っていく感じになる。
しめしめ、これはいい発見だ、と思って、書いてみた。
頭の天辺から、空へ宇宙へ。下は、地下、マントルへ。(その下はまた宇宙だ)… 瞑想、面白い。
ついでに、左目の下がよくピクピクしていたのだが(瞑想中)、この呼吸の出入りの意識を頭の天辺とおケツの下にしてみたら、ピクピクしなくなった。
イヤだなぁ、なんで動くんだろ、と、左目の下に注意をそんなに向けなくなった、重きを置かなくなったからだと思う。
意識の置き所、ほんとに大事であるようだ。