〈私〉は無い。
識別するのは眼、鼻、口、耳。視覚味覚聴覚嗅覚で、五感第六感さえ存在する。
それは存在するのだ。
感官、感覚。胃袋、腸、心臓、血液、その他諸々の臓器、それらは存在する。
だがそれは〈私〉ではない。
感情はそれら感官、眼鼻口耳から入る、それらの機能がおのずと働き、感受作用によって起こるものだ。
それは私ではない。
識別し、感受する── 苦を、楽を、好を、嫌を、憎しみを、嫉妬を、厭世を── そしてそれに執着する、快楽をまた得たい、苦を避けたい、と。
執着するのは私ではない。
感受による作用にすぎないのだ。
斯くして苦が生じる。
苦は連鎖する。うらみ、ねたみ、そねみ… 感受作用に囚われた心は、苦を、この世に解放せんとする… パンドラの匣だ。
爭いが、戦争が、憎しみが、怨みが羽をつけて。
怨嗟、憎悪、嫉妬、これは強大なエネルギーを放つ。
これらの監督者、これらを制する者、それが〈私〉なのだ。
ところで、なぜこのような感情があるのか?
わからなくて当然だ。それは〈私〉の意志ではないのだから。
すでに備わっていたものなのだから。
〈私〉のものではなかったのだから。
私のもの、と呼べるものは存在しない。
ただそれがそれとしてある。
臓器、心、自己、他者、幸、不幸… 名称があり、識別作用があり、感受作用があり…
ひとつひとつのものが、微妙に、精妙につながり合って。
世界がある。