もう、わたしはやられてしまったのです。わたしが今ここにいることを、誰かに知ってもらいたくて、Twitter、blog、投稿サイト、SNSを駆使してきました。
ええ、むなしさを感じないことはなかったです。そのむなしさを、また埋めようとして、またスマホを開いてしまいます。フォローバック、いいね返し、しています。わたしは、何をやっているんだろうと思っていました。
ですが、止められないのです。コメントのやりとりもありますし、これはこれで楽しいのです。ええ、わたしはこのネット社会にいて、楽しんでいると思います。
人が、いないと、楽しめないのです。人から、認められないと、誰かに認めてもらわないと、不安なんです。不満足なんです。
人がいないと楽しめない。ここに、わたしの不満足の赤ン坊がいます。ミルクがほしい、あやしてほしい。わたしをけなしたり、否定する人は望みません。わがままな、関係だと思います。(関係、しているのでしょうか?)
わたしの欲は、どんどんせり上がって根を伸ばし、わがままは水を与えられ、枝葉を伸ばしました。
はて、それで、わたしはどうなったというのでしょう。読まれないと、不満足です。読まれたところで、満足する自分がむなしいです。だって数でしかないですし、実際、読まれているのかどうかも分かりません。
人様のところへ行きますが、わたし自身、疑いの目で見てしまいます。この人も、ただ自分のを見てほしいだけなんじゃないか。関係なんか二の次で、自己承認願望のほうが第一なんじゃないか。すると、そこに書かれたものも、くだらないものに見えてしまいます。
わたしがくだらないものであることは分かっています。なのに、もっとくだらなくなろうとしている。
日々の退屈を、つまらなさを、埋めようとして、わたし自身が埋まり、窒息しそうです。
広げようとすれば、むなしさも広がります。
といって、今さらスマホを捨てるわけにもいきません。といって、スマホに操られている自分もいやなのです。わたしは大きなクモの巣に捕らわれた小虫のようです。こんな弱いわたしにアドバイスを頂ければ幸いです。
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メール、拝見しました。どうもありがとうございます。私とて、人様に何か授けられるほど立派な人間じゃございません。ですが、一緒に考えることはできます。
読ませて頂いて、私はこう感じました。貴方はご自分に承認願望があることを認めていらっしゃる。ですがそれを醜い心と捉えていらっしゃる。
誰もが自分の書いたものを読まれたいと願う。そこから、誰かとつながりたいと思う。ところが、そんな承認要求から始まるつきあい、交流が、貴方には信じられない。すると、こんなところに書いている貴方自身も、人を求めているが、求めている自分がいやになってくる。
承認欲求のまま、「みんながそうしている」という理由だけで、何の自省もせず、ネットを泳いでいる人達もいらっしゃいます。それが当たり前と思っている以上、一生、そこで息継ぎをして、なんでこんなことをしているのか、死ぬまで気づかぬ方もいらっしゃるかもしれない。その前に気づかれたところに、貴方の辛味があるのだと思います。
書くということは、それ自体が客観的な行為です。雲のような思い、心を形にするわけですから。
そこに、他人からどう見られるか、というフィルターを通せば、二重になってしまいます。さらにもっと読まれたい、数を稼ぎたいとなれば、三重、四重になります。
すると、書く自分が隅に追いやられ、何のために書くのか分からなくなります。まるで自分ではない、何か他のものに、書かされている感じになるものだと思います。
貴方は、そうなる前に、「自分はここにいるのだ」ということを、他者に知らせる前に、貴方自身から、「私はここにいる」という訴えを聞いたのだと思います。貴方は、他人から、外的に見られて自分を立たせようとする前に、御自分の内なる声を、聞いたのだと思います。
貴方自身の、誰のものでもない、貴方の耳を貴方は持っていらっしゃったし、内発的な声をあげる、貴方ご自身がいらっしゃいました。
外に向かう、外にばかり目を向け、そこから自分を立たせようとする方は、さっき申しました二重、三重のフィルターから、ものを書かれているかもしれません。
内発的でなく、外発的なものが多数であるとしたら、内発的な貴方との接点は、容易には見つけ難いかもしれません。
ですが、貴方は貴方の内なる声、それを聞く耳、それを書記する手を持っています。
まわりにしたがうのでなく、貴方が貴方にしたがって、どうぞそのまま、続けて下さい。
どうぞ悩まないで下さい。書くことは、内発的行為です。そのままで、いいじゃありませんか。