「ノルマンス」

 セリーヌの作品。記録的に売れなかった小説… 日本でも例に漏れず、まだ国書出版会に売れ残っている。
 その内容については、言いようがない。セリーヌの世界全開!といったところ。戦時下で、何とも言えぬ… 舞台、ストーリー云々でなく、ただただ面白かった、最高!としか言いようがない。
 ブッ飛びながら引き込まれる。こういう小説を書ける人、セリーヌ以外ないだろうとしか思えない。何回も読み返したくなる。感想どころの話でない。

 この人もキルケゴールを読んだろうと思う。椎名麟三、大江健三郎にも、やはりキルケゴールの影響があるように思う、椎名麟三には特に! いや突き詰めれば、思索をとことん突き進めればキルケゴールがどうしたって出てくる、そこに当たってしまうのだと思う。行き着く先には、あの思索家の姿・存在が… これはどうしようもない帰結とも思う。どうしたところで、そうなるのだ。
 そのキルケゴール的突き進み方を、セリーヌはあの小説で突き抜けるようにして、突き抜けたように思う、とことんやった! 形は全く違うが、あの物語をつくる歩調、足の進め方、情熱が。

 セリーヌを読んでいてキルケゴールを読まなくちゃ、との思いを改めて強くしたのも不思議な体験だった、キルケゴールのキの字も出ていなかった。いまだに、どうしてそうなったのか解せない。しかも「反復」だった、読むべきと思い、必要とした本は。
 この「反復」は解説にもあったが「キルケゴール入門」としてこれ以上ないように感じられた。曲がりなりにもいくつか読んで来た中で一番面白かった。

 そしてこれまた解せないのは、セリーヌとキルケゴールを読むと、元気になることだ。彼らを思い浮かべただけで、妙な勇気が与えられる思いがする。沸々と、なぜだか元気になる!
 そうさせたのが「本」であったのは確かだが、こうなるともはや単なる本では済まされなくなる。本以上の存在、以上というよりその本をつくった、それを書いた彼らの「存在」が、その本の下に足を生やし… 要するに生きている、彼らがいる限り自分は独りでない、という気にさせられる。

 しかしノルマンス、そんなにも売れなかったとは。セリーヌも気に入っていたのではないか、続編さえ書こうとしていた。
 読みたかった!

(その後国書刊行会のHPを見に行ったら、売り切れていた。よかったよかった!)