キルケゴールと自分

 キルケゴールを一休みしてセリーヌを読み返していた。
 内に内に向かい(というように見える)言葉を連ねたキルケゴールと、内からの鬱積を爆発させた(ように見える)セリーヌの「感動的文体」、この二つの本を交互に好きなように好きな時に読んでいくだろう。
 キルケゴールのキリスト教会批判、痛くわかる。かいつまんでここに書くのも憚れるほどだ、そんな省略をして、ほんの何行かで終わるほど、かれの云いたかったことを凝縮できるわざを自分は持たない。これはキリスト者がひとりひとり向き合って、彼と、彼の主張と… ひとりひとりに浸透されるべき本だと思う。

 それでも書いてしまえば──
 ・キリストが人間として地上にいた時、その間に受けていた苦しみ、それを忘れてはならない。
 ・救いばかりを求めることはキリスト者ではない。ほんとうのキリスト者は、キリストが受けていた苦しみを苦しまなければ、ほんとうのキリスト者たりえない。
 … たったこの二点? あんな、ほんとうに血の滲むように書いていた… いや書いている時はどうだったか、しかしあれだけの批判を繰り広げる以上、とんでもない覚悟が必要だったことは想像に難くない、その重さたるや……

 どうしても自分がクリスチャンでないから、その距離も否めないけれど。それでもこれだけ伝わってくるのだから。心情(感情?)に、勝手に訴えられる気になってしまうから、読むのもかなりしんどい。そして彼の「訴え」、主張をそのまま受け入れ、そのままに生きることは更にしんどい。だからこその〈神〉、だからこその信心、ということになるのだろうが、これはしんどい。

 ブッダの仏教は「自己の中に〈神〉がある」「誰でもブッダになれる」という、いわば「自分が全て」「世界は自己から始まる」… ひとりひとりが世界をつくる… 平穏な心で、平和な「自己」であれば、というものだったと解釈する。でもキリスト教の場合、「自己の外に〈神〉が、要するにキリストがいて、人間はそれに向かう、向かっていくことでほんとうの愛にふれる、近づける」とでもいう感がある。

 その神… 何でもいい、荘子やモンテーニュは「自然」を、神のような、人間が太刀打ちできないものとして、だからそれには抗わず従う、運命随順、無為自然といった言葉に表わしたが、そこには自然に対する絶対的な〈信仰〉があったと思う。キリストは「神人」であったが、彼らは「自然」「永遠」という、人間、人知の外にある絶対的な「自然」を大いなるものとして、それは人の形をなすものではなかった。人も、その自然の一部であるという考え方で、けっしてその頂点にヒトガタの、人間の形をしたものはあり得なかった。

 キルケゴールのキリスト信心、キリスト愛はほんとうだったと思う、しかしキルケゴールのその心はわかる、わかるつもりだ、でも彼のそこまで、彼ををそこまでさせた、心の矢の向かう先、そのキリスト教というものが…
 そのキリスト教というものが、自分には「ない」。
 ここが、いつも距離を、キルケゴールと自分の間に決定的な距離が、生じている…
(まだ著作集15「愛のわざ」途中。)