希望と絶望

 しかし絶望とは、そもそも何なのであろうか?
「これが私の絶望です」を相手に指し示す、差し出すことのできる贈答品ではなく、またゴミでもない。明示できない、「これ」というもののないものだ。あるきっかけを契機に、それを介して絶望、… つまり絶望的な気分になることが、絶望とよばれるものだろう。
 絶望そのものは、絶望した自分自身であり、絶望を抱えた自分自身の内から外へ出ないものであろう。とするなら、どこまでも気分の問題で、気分以外のどこにも、絶望というものはない、ということになる。

 気分、というと、いかにも軽いので、「いやそんなもんじゃない」と「精神」という少し厳めしげな言葉に当てはめられもしよう。
 心、とか。
 しかし、どんな言葉にそれを当てはめようとしたところで、それはそれを抱える自分自身の外を出ないものである。
 それ自体は、けっして外へ行かない。外へ出ない、行かない、内の中にのみあるもの(これは真実、本当、絶対、といったものもそうだろう)で、しかし、だからそれ自体はたいした問題ではない。それが、つまり絶望というものが問題になるのは、それを抱える者が「苦しい」ということで、そうでなければ別に何の問題にもならない。

 ところが、その問題が、内にしか在さない以上、そこに手をつけられるのも、当人以外にない。まわりは、その問題を解決に導けるかもしれない「きっかけ」を、与えることができるならば与えることができる、ということにすぎない。
 すると、問題の始まりも解決も、それをもたらすのは当人でもまわりの人でもない、「きっかけ」であった、人(当人を含め)はきっかけをつくるきっかけにすぎない、ということになる。
 きっかけは、どこまで行ってもきっかけである。実体がない。しかしそのきっかけが、明るい気持ちにさせたり、暗い気持ちにさせる。希望も絶望も、あるきっかけをタネに、できあがる。そしてそのタネを蒔いたものの、ほんとうの正体は見えないままなのだ。