犯罪者の牢獄(まさに生きているだけの、更生しようにもその意思のない、ただ「生きているだけの者」)で生ける者と、一般社会における人々の生活。
一体、何が違うのか? その差異を述べよ。
犯罪を犯し、更生する意思もなく、ただメシを供給され、牢屋の中で生きている者── 彼はそうして「生きている」。おそらく、そうして一生を終える。終身刑だからだ。
彼は、とにかく生きている。生活している。他の犯罪者とともに、運動をし、工作する「授業」も受け、生かされるための給食を口にする。
彼はそうして生きている。自分の罪を改め、善い人間になろうとする意思など皆無である。
こうして生きている、それだけで彼は充分、いや充分とも不十分とも、自分がこれでいいとか、これで悪いとか、そんなことも思わない。いつも彼は「チッ」という。「チッ」、という時の彼は口元が微笑んでいる。「チッ」、は、けっして満足から出ていない。補足すれば、「チッ」の後に「仕方ねえなあ」なのだが、彼は微笑むのである。この微笑は、安住の微笑、満足した微笑、満たされた心から来る微笑なのだ。
どちらかといえば、というより、あきらかに彼は微笑み、満足している。本人は否定するだろう、「こんな生活に満足してるわけねえじゃねぇか」。そう言いながら、しかし彼は、やはり微笑んでいるのだった。はにかみの笑みでも、愛想の笑みでもない。それは明らかに、「けっして不満であることはない」微笑、口元に浮かぶ、浮かんで当然であるような、その笑みが全く自然であるような微笑なのだ。
もはやその口は、そう微笑むためにその顔にこびりついている。その微笑を浮かべる以外、その口の役割はないかのようである。いや、「役割」さえ忘れている、他にどんな動きができるのか、とうに忘れ切ったかのようである。
チッ、微笑、チッ、微笑。むろん、ひとりでいる時は(想い出し笑い、何かひとりでヘマをした時以外は)むっつりしている時間が多い。顔に、それほどの変化はない。もっぱら他者と関わり合う時、あの「チッ(微笑み)」が浮かぶ。
彼は一生、チッ、微笑であった。そしてそのまま、牢獄で暮らすのだ。そこで暮らし、死んでいくのだ。そしてその通りになるのだった。