極端さ… これは、内面にこれを持つ者を苦しめ、憂鬱に誘う楽園にも苦の国にもなる、両国に通ずる道である。端はそもそもそれ単体ではあり得ず、端があるからにはもう一つの端が、その場の全体のそこかしこにある筈で、「一」があれば二、三、四がある、それを見る自己がそこにいる限り目に入ってくる、そのうちの一つを端を最初に見つけた「一」の対として見い定めることに始まるだろう。
会議室に自分を含め六人が参加しているとしたら、六人による六様の模様がある。(だがその自分は五人を見る。この時自分は六人のうちの一人の自覚はあれど、その意識は薄い。六人のうちの一人、「六」を構成する一人である意識が働くからだ。自分より、まわりにいる五人に意識の大部分が持って行かれる。これから自分が意見を言う際、この場の空気をよく会得することが肝心であることを知っているから)
そのうちの一人は部長であり、一人は係長であり、一人は無役職である。自分も無役職である。最も位の高い部長に気に入られることは大切である。だが人間的に好きでない。係長もアテにならない。心情的に、自分と同じ無役職の一人にきみは親密を覚えているし、人間的にもこの参加者の中で最も好感の持てる人物であった。そんな親しいわけではなかったが、彼の意見には同意することが多かったからだ。
だが、きみは会社を優先したい。それは、親密な一人を優先しないことになる。会社を優先したいとは、要するにこの会議室では部長に認められる意見を自分がいうことである。(きみには妻子があるし、会社のためになることが家族、結局は自分のためになることを知っているが、このことはこの文章の上では問題にしない)
たった六人の中にあっても、自分は六通りに分裂する。その尺度は「立場」であり「心情」であり、会社であり個人であり、何よりこの場の空気であり、意識は六通りに分裂する。
この時、この場を見つめる自分は、一体何なのであろう? 自分は六の中の一である。しかしこの自分という一の中に、六がある! いや、五か。いや、自分を客観視しているきみは、六というべきだろう。
すると一体、自分はどこにいることになるのだろう? 会議室である。きみはふいに、この部屋の外へ意識が行く。一体この空間は、この机は、この椅子は、そしてここにいる六つの喋るものは何なのだろうと思う。(考えるには当たらない。思う… ただ感じている、が相応しい表現である)
なんと小さな空間か、ときみは思う。(この時あきらかにきみは思っている。感じている、というのは当たらない。感じが、いっそう強固なかたまりになった時、想念、思念、念が生じ、「感じ」が感じでなくなる)
だがきみは何もできない。この場において、何しろ会議なのであるから、何か言わなければならない。言わなくてもいいのだが、言うべきだと思う。義務のようにきみは感じるとしよう、ここで初めて義務が、「べき」が生じる。おそらく、この場においては正しい義務と思う。義務は、正しいものでなくてはならない。
そして何か言う。そういう順番になったので。順番? ただ何か言わねばならない空気になった、部長から振られたことが大きいが、話を振られるずっと以前から、きみはこの義務感のとりこになっていた。そして言う。六のうちの一が、いまや「一」そのものになって、五に向かう。
だが、この五、一、一、一、一、一が、きみの内部にいるままである。外にもいる、五体が、きみの内の五が外の五になったのか、外の五が内にある五であったのか、もはや判別がつかない。
外も内も、同じ五のように感じられる。おそらく、そうだろう。だが、内の五は、外の五に比べて弱く感じられる。外の五は、否定し難く、否定できない。そこにいる。ある。だが内の五は、何としても曖昧である。だが、この内の中にほんとうがあるのだ、という哲人の言葉を思い出す。ところが、いっかなほんとうが、ほんとうが見つからない、見あたらない。
結局きみは何か言う。それがきみの義務であるからだ。そして言った。その瞬間、最大限の、だから最善であり最悪であり最小限のことを言った。真剣であったことだけが確かである!
たった一時間半の会議に、きみはこれだけの労力を使った。千々に乱れたように分裂に、自分はどこにつくべきか、心情的パートナーである同僚にか、会社、自分をまた家族を生かすかのようなこの会社につくべきか、その中間の、当たり障りのない、意見にもならないような意見を言うべきか、それとも何も言わないに等しい一言で済ますか、── 一つの端、一つの崖、一つの先端にきみは立たされた思いがする。
この端は、場の一つである。あくまでもどこまでも会議室なのだ。だが、きみにとっては、つまり自分にとっては極度の端、崖っぷち、ほとんど命がけの、呼吸も苦しい仕儀となる。
この端にいる自分は、端にいる。だが、この端にいる自分を見つめる自分はどこにいるのか。もう一つの、端にだろう。あとは、五、であろう。だが意見を促され意見を言う時、もはや四も五もなく、自分の意見を言うことのみに全注力がそそがれているのだ。なぜならその瞬間、きみは真剣であったからだ。
さあ、自分が何かここに書く時、自分がひとりでこの会議室にいるかのごとき気がする。
極端にならないかぎり、自分は何も言えない。いや何だって言えるが、極端、両極端が必要なのだ。そのかぎりでないと、何か言うことも、何も言わぬに等しいと感じられる。
椎名麟三は「どうしてあなたの書くもの(登場人物、舞台設定等)はあんなに極端なんですか」と訊かれたという。かれはキルケゴールの影響を受けていたし、またキルケゴールも極端な、というより弁証法という(ぼくの解釈、考える「弁証法」というのは二つのものをものとして言い表わし、表現し、でないと、それは必然必要であるし、二つの、いわば対極、対となるものののうちから畢竟一つのことが見い出されることでないと、これはどうしたところで必要となるもの、としか考えられない、というものだ)仕方で著作をした。
極端であることは、確かに端に追い詰められた気分をもたらすし、けっして安楽椅子的ものではない。おそらく、これを内に抱えたままでは自家中毒を起こし、窒息しかねない。それも想像の域を越えないが、おそらく、そうである。このために自分は書いているのだ、という、ひとりだけの会議室でひとりだけの意見を言う。そして満足をしない。現実にビルの中、会議室でどんな立派な意見を自分が言ったとしても、自分は満足しない。そこには、けっして自分ひとりでいるわけではなかったからだ。
それからひとりになり、… つまり家に帰り自室に入り、まるでひとりになった時、初めて「あの時」がいかにも現実味をもって現われてくる。
自分の書いていることは全て想起であり、いわば死人を顧みる、省みること、なぜならあの時間は過ぎ、あの時いた人ももういない、ひとりになって、あの時もすでにひとりであったのに違いないが、その自分もふくめ──