本の存在、執筆者の存在

 2003年の夏に、椎名麟三全集全24巻を30.000円で買ったのである。
 当時、インターネットで検索していて、いちばん安価であった。なかには、これを10万円とか20万、30万円で売っている古書店もあった。それが悪いなんて思わない。ただ、ぼくには高すぎると感じただけだった。

 しかし1巻、定価で2000~5000円するのだ。(その厚さによって価格も異なってくる)それが24巻で30.000円だったのだから、破格の安さだったといっていいだろう。その古書店は、まもなく営業を辞めてしまったようだったが、家から電車で近く、家人と買いに行き、ふたり、本の重さに耐えながら運んだ。あの本屋さんでなければ、入手していなかっただろう。
 そうして椎名麟三の遺した、ほぼ全ての作品を読むことができている。

 椎名麟三を読んだからって、夜よく眠れるようになるわけではない。寧ろ、よけい眠れなくなることもある。メシの代わりにはなり得ないし、スーパーマーケットの買い物がし易くなるわけでもない。しかしぼくには、とてつもなくありがたい書物なのだ。

 何か「現実」に即し、実際的にこうしたら良いだとか、より良く生きるとか、こうすれば「とにかく良く」生きられますといった、そういう生産的なものではもちろんない。実践的な、目に見えた事実として「役に立つ」ものでは、けっして、ないだろう。

 椎名麟三がそこにいてくれるだけでいいのだ。どんなに読んで考えて、そして目に見える範囲内では、何も、どうもならない日々の生活の姿であったとしても。