面白かった。漱石のエッセイ。厭世観、自殺の誘惑がフッと重く、しかし淡々と書かれていた箇所が特に残った。
修善寺で800gもの血を吐き、その体験への固執、何遍も繰り返し当時のことを述懐するところは、いかに漱石が「一度死んだ」ことを摩訶不思議な、理解を超えたような、手のつけられない、とんでもない、とてつもない体験であったか。
その「死」自身の「死」に、ドストエフスキーの体験を照らし、考えるところの記述も興味を注られた。思想犯として逮捕され、銃殺刑される寸でのところ、仲間のうちには発狂する者もあった。ドストエフスキーに数秒後に迫った死に、漱石は自身の体験した死と比べてみる。
漱石がドストエフスキーについて書いている! 嬉しくなった。
(ついでにウイキペディアによれば、ドストエフスキーはその著作「作家の日記」で〈ユダヤ人を批判する反ユダヤ主義的主張を死ぬまで繰り返し…〉とある。セリーヌと同じ主張を続けていたとは、知らなかった)
漱石は「もう助かるまい」と誰もが思った大患から蘇生した。そして感謝した。何に対する? いのち、に対して。こんな簡略に書かれていないが、この感謝の気持ちを忘れずにいたい、という意味のことを、忘れてしまうことが前提であるかのように書いている。
ドストエフスキーの、〈人間は幸福であることに気づかない〉という意味の言葉についても、この「死の体験」、死が目の前に文字通り迫った体験、この体験と、無関係であるはずがないと思った。もちろんドストエフスキーはもっとふかいところを見ていたろうが…。
漱石の、金銭というものへの嫌悪、これも実際の体験からあるものだろうが、面白かった。
漱石は、読むのに時間がかかる。漢字を駆使していて、単なる漢字としての意味を超えた意味を、そこに持たせているのが感じられる。そして自分が見、体験した、している世界を、それに対してなるべく正確に、とにかく正確に、精密に、描写する。その「漱石の世界」としか言いようがない世界が、何とも心地いい。
昨夜から、「二百十日・野分」を読み始めた。