ほかにも、太宰、大江健三郎… モーパッサン、カフカ、漱石、ドストエフスキー。
心に入ってきた作家、思想家。
しかし「生きる」、実際の生活、人生を生きるという点で、自分に最も入ってきたのは椎名さんとキルケゴールだろう。
椎名さんの「生きる姿勢」、キルケゴールの「ほんとうのものへの希求精神」というようなもの。
この二人の生き方、僕が一人で感じている「ほんとうの生き方」のようなもの。
荘子とモンテーニュの「自然に身を任せる」生き方も大好きだ。
哲学などというと、いかめしい。生きる上での、それは土台で、そんな距離を置くものではない。
太宰は自ら死んでしまったけれど、あとのみんなは、しっかり生きた。
モーパッサンは精神を病み、晩年は厳しそうだったが…(ああ、ニーチェもいた!)
みんな、よく自殺しないで生きた。ほんとうに、感嘆する。
僕は今、どうやって生きていったらいいのか、いよいよ分からなくなっている。
もうやるべきこともないと思えて、一日一日、ため息ばかりついている。つらい、と、それだけが確かに感じられる。
生きていることを楽しむこと。その楽しみ方が、わからない。
…と書くと、ウソのように思える。
僕は自分からつらさを、苦しむことを望んで、こうしていることを知っている。
楽しいことに、自分から目を伏せ、つらいことばかりに目を向けるからこうなっているのだということを知っている。
そしてそんな自分に、ほとほと嫌気が差して、もうどうしようもない、と思いたいのだ。
こんな自分は、「書くこと」で、何やら満足、「生きた」気になって、「書くこと」=「生きること」として生きて来た気がする。
でもここ約2ヵ月、何も書かなかった。
参加している小説投稿サイトにも書かなかった。そのサイトの方はPV数も100万を越えたが、こんな数に一喜一憂する自分がイヤになった。コメントのやりとり、「つきあい」のようなもの…コメントはそんな無いが、やはり「つきあい」、交流のようなものはある。そんな人間関係にも疲れたというのが、正直なところだ。
みんな、「認められたい」ことに一生懸命だ。SNSは、まるで承認願望を満たすために利用されるツールのようだ。
僕は、書いたものを公に公開するというこの行為に、自己嫌悪を感じ始めた。
自分の、何を認められたいというのか。
読まれることは嬉しい。でも、それを望むあまり、それだけを望んで書くことは──ばからしい。自己がどんどんカラッポになって、虚飾に虚飾をかさね、ないものを「ある」と言い張って、自己欺瞞、何にもならない時間が無為のように残るだけだ。
人に認められる快感ばかりを求めてしまう自分がイヤになった。
脳はばかだ。気持ち良かった過去を求めようとする。
今を、とてもじゃないが生きていない。過去に囚われ、また未来にそれを求めようとする。
「人の目」も同様だ。「人の目」など、自分でつくった目にすぎない。トリックだ。
その目をつくる自分自身そのものへ目を、足を、手を向けるべきで…
キルケゴールのあの姿勢、モンテーニュの自己研究、ひいては人間存在の探求。
今までも、自分の日常体験を題材にそういう書き方をしてきたけれど、もっと内へ内へ。
そんな力が、まだ自分に残されているか、わからないけれど…。