「曖昧な日本の私」

 そんなタイトルで、大江健三郎が何か書いていた気がする。

 晩年の大江が、どんな時間を生きていたのか、僕は知らない。

 最後にその記事を見たのは、れいによってネットの軽薄な週刊誌の取材、それもいきなり大江を「捕まえた」とでもいう、突然のインタビューみたいなものだった。

 心療内科的な所へ行っているのですか、というような問いに、「いえ、私たちは健康です」と、奥さんや子どもさんのことも含んでか、そんなふうに応じていた。そして足早に歩いて行った、というような記事だった。

 この「私たちは健康です」という言葉が、僕には妙に引っ掛かった。

 薄っぺらい僕の言葉でいえば、「世界はあまりに不健康ですが」ということが、あぶりだしみたいに浮かんでくるように思えたからだ。そして大江さんは、この「不健康な」世界に自分も「不健康なままで」いるんです、でも、それでも「私たちは健康です」と言い切った──

 大江さんは、ときに危なくなるようだった。奥様は、家をつくる時、「自殺してしまうといけないから」と、梁をむきだしにすることをやめさせた。あれは、首を吊るにちょうどいい具合であるからだ。

 大江さん自身、「ピンチ」になる時があることを、あからさまではないけれど、どこかに書いていた。「ピンチランナー調書」だったか… 息子さんのイーヨーも、お父さんがピンチになる時があることを、知っているようだった。

 大江さんの本はずいぶん読んだが、そのあまりに多い、言葉の多さに、常に僕は圧倒され続けた。しまいには、それが心地よく、その言葉の波に溺れることが気持ちよかった。

 わけのわからない本もあって、また読んでも虚しさしか覚えないような本もあったが、それでも何か気になって仕方のない作家だった。

 大江さんが亡くなったことを知った時、ほんとにショックだった。

 死について、よく(かどうか知らないが)いわれるように、「その人の死が悲しいのではない、取り残された自分が悲しいのだ」を体験した気になった。

 身内、家族の死でなく、会ったこともない大江さんに、こんな感情を抱くとは思わなかった。

 ああ、もう生きている作家で、読みたい人がいなくなってしまった。そんな淋しさもあった。

 なぜ大江さんのことを突然書きたくなったのか。

 部屋に、収納できない本が雑然と積み重なっている。処分したいが、捨てられない。この本の中に、大江さんがいる。

 どうしたらいいんだろう。自分自身の「どうしたら」と、本に対する「どうしたら」が、リンクしすぎてしまったせいかもしれない。