キルケゴールのことを思うと、やはり大袈裟になるが、そうなるのだから仕方ない、涙ぐまざるをえない。胸に来てしょうがない!
「瞬間」は面白い、読んでいる間は。面白い? 語弊がある… ひたすらにキリスト教会、当時のデンマーク教会、その牧師への攻撃に終始する内容、といっていいと思うが、これを書かせたキルケゴールの心、「ほんとうのキリスト教」を訴えるその姿は、その心情を思うと胸に来て仕方ない。
書いていることは、表現の仕方に違いはあれど、同じ批判に終始しているように思う。だが批判というより、やはりキルケゴールは「ほんとうのこと」を言っているのだ。この「ほんとう」に完全に反しているのが当時のキリスト教会であったなら、ほんとうでないそれは批判の対象になってしまう。
ただ自分には、批判以上に、キルケゴールの「ほんとう」、この訴えが、胸に来て仕方ない。全く涙ぐましい、こんなことを書いたって、出版したって、何も変わらない。それを知りながら(知っていたと思う)、それでも書いて自費出版せざるをえなかった。それでも? だからこそ、か。
何千年も続いてきた慣習は変わらない。それでも「それは違う!」と、当時の教会を牛耳るようなボスに面と向かって言い、さらにその理由を事細かく書き続けたキルケゴールの勇気、この勇気、この勇気には、言葉もない。
セリーヌを思う… 彼もユダヤを批判し続けた、結果孤立、孤独に…「敗残者」… セリーヌも、あんなこと書いたって世界は変わらなかったろう、戦争を止められなかったろう、それを知っていただろう!
でも書かざるをえなかった、キルケゴールがそうせざるをえなかったように、そうせざるをえなかった。
こういうものを運命とか自我とか、いいたいものは言え、彼らは「ほんとうのこと」を言った。
自分の胸に来るのはそういうものだ、こっちの感情に訴えてくるのは。
「負けると知っていながら、決闘をした」数学者のパトリック・ガロワのことも、詳しく知らないが「かめ君、パトリック・ガロワって知ってる?」と世話になった予備校講師から最初に会った時訊かれた…
それはそれとして、
ドストエフスキーのことも思う。「こうすれば幸せになるのに、人間はそれを知っているのに、そうしない」
そう、知ってるだけじゃ駄目なんだ。その「知」を生かさなきゃ!
そして考えなきゃ!
また老子荘子のことも思う、彼ら、荘子のことしか自分はよく知らないが、あの中国思想史にあって孔子はその父といっていい、と思う。が、のちの弟子たちがただの「形式」、冠婚葬祭にしてもただの形式、内容を、気持ちを、つまりは内容をどうでもいいかのようにして、形ばかりにこだわったこと──
この「中身のない儒教」、金儲けばかりに走って醜く肥った、儒教への反発として墨子が生まれ、老子荘子の登場も、もしかしたら孔子の思想の形骸化がなければなかったかもしれない。なかったろうと思う、あの永遠的な思想も、少なくとも孔子の思想腐敗への否定なくして、生まれにくかったろう。
西洋東洋、紀元前紀元後、場所、時間、そんなものはたいした問題でない。
現代… をみれば、ワルいことをする為政者が隣の国にいても、それに対して「内政干渉」が彼にとっての防御壁になる。が、内政、干渉、そんなことの前に、「人間として」がどうしたってあるだろう。その前には、国がどうあろうが決まりが何だろうが、法がなんだろうが、「人間として」があるだろう。
至近な話をすれば、町内会のどんな規則、決まりがあろうが、ゴミは分別する、できればゴミはあまり出さないようにする、が、人として、の── 規則の前のものだろう。
数多ある投稿サイト、SNSになぞらえれば、結果、形にばかり、またぞろ言えばPV数だのイイネ数だのにばかり注意を向け、内容にほぼ見向きもしない… 中身は虚、形だけを実とする…
批判精神、 たしかにその対象があって初めて「自我」が芽生えるという。何かを否定して、初めて自我が「ある」という。その自我が心、精神であるとすれば、元々それは残念ながら無である、ということになる。少なくともそこに自我はない。自分は無い。
あるにしてもないにしても、苦であることには変わらない。キルケゴールは苦を厭わなかった、苦しむことこそキリスト者としてのほんとうの姿なのだと言った。それは愛なのだ、神は愛であり、愛は神なのだ、と。
キリスト教に疎い自分にも、このキルケゴールの言葉は胸をうつ、強く来る、この「キリスト者」を「人間」と解釈して読んでいる。「神」は「自我」「自己」と、影を踏むように。なぜなら神も、人がつくったものであり、その人は一人一人の自己であり、その自己がいなければ神もないからだ。
しかしキルケゴール、ほんとうに考えるということ、ほんとうに考えることは、これをすれば、キルケゴールは彼一人だったけれど、誰だって考えることをほんとうにすればこうなる、キルケゴールになる… ほんとうに考えるとはこういうことだ、内面に向かい、内面に向かう!