キルケゴール、「愛のわざ」。
上巻より下巻の方が面白く感じられるのは、「永遠性」「神」「愛」「善」といった言葉、および彼の思考の仕方、文体の流れに慣れてきた所為なのか。聖書からの言葉を土台に、色鮮やかな葉々、花をつけるキルケゴールの本。
まじめすぎるとか、働いたことのお坊ちゃんだとか、彼を悪く言う批評もあったようだが、自分の身を削らない軽薄な批評で(批評なんて大概が軽薄だ)そんな評論は俗物の戯言。評論家は狡猾だ、自分は安全な場所にいて好き勝手なことをいってメシを喰う自家養豚。自分が豚であることには意も介さず(自覚して考えることをしない)、腐った業界で糞を食べて肥え切った恥知らず…
「愛のわざ」。このタイトルからして、いささか躊躇しながら読み始めた。読み進めるうち、キレイすぎる、これは単なる理想ばかりだ… と感じないわけでもなかった。「神」という名詞から、すでに抵抗があった。だが、我慢して(我慢というより「考える」つらさ、「ついていこうとする」しんどさ)読んでいるうち、彼の言う神、永遠性、愛、の意味がだんだんわかってきた。腑に落ちるようになった。ちゃんと、異和感なく、飲み込めるようになった…
あまりにも胸に来る描写も多いので、勢いのまま読み進めるのがもったいない、一寸距離を置いて、間を置いて、読む。そのために何時間も本を閉じたまま、べつのことをしたりする。
このような現象は、漱石の本を読んでいる時にもあった。読むのがもったいない、読みたいのだが、このまま読み続けたら、今胸に残っている大切なものが零こぼれてしまう── こんな入ってきたものが、せっかく胸にある、この本から入れられた、手ごたえのあるだいじなものが、零れてしまう。(自分の器が小さいせいだが)一寸間を置かないと、この胸の上に、また新しいページ、さらに新しいものを入れられると、溢れ返って流されてしまう。
読むのが大変だ、というのがある。こちらの身体的問題ではなく、発想── キルケゴールの発想、その言葉、使い方… 言葉の… が、馴染めない時があるのだ。
それは「一から」違うものだから、「一から」、こちらもまず発想の転換的な、あ、これはこういう「一」から始まっているんだよな、と、そこから行かないとチンプンカンプンのまま読み進めていくことになる。それでも後から、わかる時があるけれど。
自分にとって「わかる」とは、頭の問題ではない。臍まで落ちてくるか、ちゃんと五臓六腑、この身体の中に入ってきているか。この手ごたえ、腹ごたえ?があって初めて「わかった」を実感する…。
「愛は、見返りを求めない」。これも聖書の言葉にあるらしいが、このキルケゴールを読んでいると、どうしたところで今自分のいる現代、自分の関わっている社会というものを意識する。見返りばかり求め、それが当然であるかのような風潮、風潮どころかそれが「土台」になっているような…。
いや、いいねの投げ合いなんかその最たるもの、自己満足のマスターベーションのために「数」を欲し、そこには恥もないかのように。
いや、もうそれはいっぱい書いてきたから、もう書くまい、でもきっと書く、「ここ」ネット社会に書いている以上!
「見返りを求めない」? キレイゴトだよ、と自分も思った。が、キルケゴールはそれをキレイゴトと済まさない。ちゃんと、なぜそれが愛であるかを、こっちを向いて、ほんとに語り掛けている。
論理立てている、という見方もできるだろう、しかしそうやって彼は書いている、書いている前に考え、ほんとうに考え、考え、それを書いているのだ── これが「血の通わない本」になりえない、そんな冷たい言葉、理詰めで理屈だらけの文にはなりえない。 いや、なるのだが、そこにはちゃんと肉がある、身体が、血の通った体がある。
まったく、涙ぐましい。なぜ? しんどいからだ、キルケゴールの言う愛の実践(ほれ言葉にすると胡散臭い…)、愛の実践は、自分にとってしんどい、まるで遠い!
ところがそれは近くにあるのだ、それも至近に。それは時間性を持つもので、しかし永遠性を自分は見るものだ、感じるものだ。そしてこの「時間性(俗性)」と「永遠性(神的、愛)」のなかに、永遠性からすれば時間性のなかの「瞬間」に自分は存在している、永遠性とは時間性(この世的なもの)を超えた、「うち」にあるものではないもの… しかし、だからここに存在し、ここにしか、ここにしか存在できないということ。
よく、「本を跨またいだりしてはいけない、本は、そこには生命があるんだから」と昔の人?は言っていたらしい。自分は言われたことがないが、書物、このキルケゴール、またセリーヌにも、そういう「生命」を感じる。寝転んで読むことが多いので、つい床に置きっ放しにしていると、うっかりケッ飛ばしてしまう時がある。と、こころから、ごめんなさい、と謝ってしまう。もちろん跨いだりしない、避けて通る。机に置けよ、という話だが。
「~してはいけません」と言われるまでもなく、ほんとうに自分にとって大切なものは、跨げやなんかしない。