「弁明」を読んだのは3回目だった。やはり少し涙した。
泣くという行為には、怒りという感情も同居しているように思う。
ソクラテスのような人間は、殺されるべきではなかった。
死刑に、全く値しない。なのに、そうなってしまった悔しさへの怒り。
明らかに、不当な冤罪である。
しかし、不当であるからこそ、すすんでソクラテスは刑に向かっている…
何が彼をそうさせたのか。「ダイモーン」の存在がある。
これは、まったく彼にしか知り得ない、彼の中にしか存在しない存在。
モンテーニュも、「ソクラテスのダイモーンはさっぱり分からない」と言っている。
存在というより、それは「声」だった。実体は、ソクラテス自身も分かっていない。
だが、彼はその声を信じ、場面場面でその声に従って生きてきていた。
「子どもの頃から、その声は聞こえた。自分が何かをしようとする時、『やめなさい』と言ってくる。その声が聞こえると、それをするのをやめた。声がしなければ、やりたいことをやった」と言っている。
しょっちゅうではないが、その声がする時、その声はきまって「それをするのはやめろ」というのだった。
ギリシア神話のセイレーンのような、声だけの存在…
それはソクラテスに、生まれた時から付き添っているものだった。
精霊、神といった宗教的な種族のもので、彼が何かをやろうとする際に、その意識下の「やるという判断」の一方の座、「やらないという判断」に、確実に鎮座していたものだ。
「あれかこれか」の情況におけるソクラテスの、「あれ」ではない、「これ」の分身だったように思える。
そして「法廷に向かう朝から、その声は全く聞こえなかった。だから、これはどんな結果になるにしても、自分に悪いことではない」と彼は判断した。
古来、ギリシアには「生まれたことは不幸なこと。早く死ぬのは幸せなこと」という考えがあったというから、その土壌から沸き立つ空気の中で、ソクラテス自身に死を望む気配が備わっていたと感じられなくもない。
ソクラテスには、「殺される」という表現は全くそぐわない。
裁判員投票によって死刑が決まり、死を命じられたのに、まるで彼にとっては、ほんとうには命じられていないのだ。
その死は、命じられた結果でもなく、自ら死のうとした結果でもない。
まったく彼は、水を飲むように死を受け入れるのだ。
その死の直前まで、彼は友人たちと語らいでいた。
その話題は、もっぱら死についてであった。
もうすぐ死ぬ人間と、そのまわりにいる人間に、他にふさわしい、何が題目になったろう。
彼らは、議論の末、死後の世界は存在する、という結論に至った。
その輪廻転生、生命の行方、成り立ちの考え方は、実に仏教的なものであった。
その考えに至る道程は、「パイドン」の中に描かれている。
「哲学」は、ソクラテスにとって魂を浄化する、唯一無二の手段であった。
それは全く、ブッダの行き着いた「法」への論理の道と、並行しているように思える。
このブッダとソクラテスの人間存在への姿勢が、ぼくには同一に思える。
このふたりに近づいた弟子たちの書物を読む時、真実のようなものに触れる実感をもつ。
その実感は、日常の、何か些細なことで感情を起伏させる自分を、何か包み込むような、大きな、形は分からないが、確固としたものを意識する方向へ持って行く。
ソクラテスの中にいた「ダイモーン」が、まるでこの身にも宿るような気にさせられる。
ぼくのそれは、せわしなく何か言うけれど、落ち着きがない。