「そののち、天下は大いに乱れ、聖賢はその姿を現さず、道徳の教えも統一を失うようになった。こうして天下の人びとは、それぞれに局限された見地をもち、これに自分だけの満足をおぼえるものが多くなっていった」(荘子「天下篇」)
結局私は、共感するために読書しているのだろうか。
それほど私はひとりぽっちなのだろうか。
自信がないのだろうか。
共感を得て、どうするつもりなのだろうか。
私には疑いがある。
「なぜそうなっているのか」への。
自分自身と、そのまわりに対して、それは同等に思う。
なぜそうなっているのか。
それに対する反発もある。
疑いが、すなわち「反」になるらしい。
真実、真理とかいう言葉も、なかなか胡散臭いものだけれども、どうも永久普遍に「変わらないもの」を真実の定義としたい。
「そんなものはないのだ」と「それはある」がある。
どっちも真実だと思う。
ただ私の中に偏りがある。
「そんなものはない。しかし、ある」という方向への傾きが。
それは全く、知恵とか知識とか、そんなものでは計れない、
何か宇宙の法則のごときもの。
「自己」に立ち返って考えてみよう。
その時その瞬間、自己は「ある」。
何か感じ、何か見、何か考える自己はある。
それはまったくほんとうだ。
だが、次の瞬間、その自己はいなくなる。
また別のことを感じ、別のことを考えている。
1日の中で、どれだけ自己が変化しているか。
その時々ではほんとうであるが、1日として観れば、変わらぬものがほんとうであるとするなら、まるでほんとうではない。
ほんとう(真)とウソ(偽)は、互いに身から出た錆のようだけれど、その二元を越えて、あるものが真に真のものであると思いたい。
そしてそれは、あるのだと感じられてならない。
「感じる」のは私だけだ。
他の人の感じ方を、私はほんとうには知らないから。
そして、そう私に感じさせるものが何であるのか、私は知らない。
結局、それが何であるのか。
それは、けっして本体として表現されない。
その影、ぼんやりした輪郭、しかし確かに言語化されたかたちとして、私がそれを見る。
はたして、その筆者がほんとうに云いたかったことが、それであるのかどうか分からない。
ただ、そのかたちから、私が何か感じてしまう。
共感といっても、一方的であるのが私の実情だ。
先日、やはり古本屋で「世界の名著」、フロイトとヘーゲル、ロック・ヒューム、キケロ、エピクテトス・マルクスアウレリウスを追加購入した。
死ぬまでに読破できるかどうか。
たまに思う。ここにこんなことを書いているより、読書をし、よく労働をし、生活をするということの方が、よほど生きている人生になるのではないか、と。