椎名麟三(4)「時はとまりぬ」

 初期の作品で、大好きな小説。
 やっぱり絶望的な主人公が、絶望しか見い出せないような日常の中で、散歩をしている。
「ふと」映画館に入ろうと思う。この「ふと」が、気に入って、映画館に入る。

 スクリーンの前のほうで、落花生か何かを食べながら鑑賞しているひとりの女性が目につく。
 映画館を出て、駅へ向かう。駅に着く。寒い。吹きつける北風をしのぐために、ホームの下の階段で、電車が来るのを待つ。
 そこで主人公は、またあの映画館で落花生を食べていた女性を見た。

 そういえば、自分が散歩をしていた街なかで、ある事件が起こった時、ヤジウマしていた自分の後ろにも、あの女性はいた。

 上り電車が来る。下り電車も来た。女性は下り電車に乗る側で待っていた。だが主人公が上り電車に乗ろうとすると、その女性は踵を返し、上り電車に乗ろうとしてきたのだ。

 主人公は駅を出て、また歩き始めた。すると、10数mの間隔をおいて、その女性も主人公の後ろをついてくる。

 その時、主人公は思い出した。以前勤めていた会社にいた、○○子だ。あの時も、ぼくは○○子に、このようにして追いかけられたのだ。
 
 だが主人公はそのまま歩き続ける。○○子も、10数mの間隔をおいて、歩き続ける。
 そしてついに主人公は振り返る。それから、○○子目掛けて走り出した。○○子も、主人公から逃げるように走り出した。

 しばらくふたりは走り続ける。
 主人公は全力で走り続ける。何のために走っているのか、分からなくなる。
 そのまま、とうとう○○子を追い越してしまう。追い越す際、彼女の顔を見る。間違いない。○○子だ。

 追い越してもなお、主人公は走り続ける。後ろを振り向くと、立ち止まって呆然とこちらを見ている○○子の姿が遠くにあった。
 40歳の主人公の体力は、ぼろぼろである。足をもつれさせながら、行き着けの喫茶店に、転がるように入っていった。客と女主人が、唖然と主人公を見る。

 それから主人公は、今夜はこの女主人を口説くんだ、思い切り愚劣なことをしてやるんだ、と心に決める。

 という小説だった、と記憶している。
(前記事の「福寿荘」と同じく、かなり前に読んだ小説なので、間違っていたらすみません。でも、大筋は、こんな感じです)

 何も主人公は、追い越さなくてもよかった。
 しかし、やっぱりこういう椎名麟三が、ぼくは好きである。