なんでこんなに、こんな表現方法、ここまでするか、ここまで言葉、駆使するか。ワンセンテンス、長い、よく分からない、最初は何だったっけ? 一節にある文字を追うだけで青色吐息、暗中模索、五里霧中。
しかし、くらいついたつもりだ。くらいつかざるを得なかった。
いつかも書いたけれど、山口洋子の「博士の愛した数式」は素晴らしい本だったと思う、しかし、この1冊で、もういいや、と。それ以上、彼女の作品、読もうという気になれなかった。
だが、大江の、これは何なんだろう、1つの作品を読んでも、もっと読みたい、と思える、欲求するのだ。
「万延元年」は、それが、ほとんど1ページごと、ワンセンテンスごとに、ふぅ、終わった、しかし、まだあるゾ、まだあるゾ、と、あきらめることができず(「終える」ことができず)、読まざるを得ない状況に、ぼくは陥ってしまった。
そして読み終えた。10ヵ月くらいかかったのだろうか。地道すぎる、硬い岩盤につるはしでコツンコツン、微々、微々と穴をあけていくような作業だったような気がする。
ともかく読み終えて、最後にユーモアが残った。
読み終えた充足感もあったけれど、それ以上に、ユーモアが強かった。ぼくはニヤけた。笑うまでには至らない。充溢感をもって、そのユーモアを心地よく、良い加減に身体の芯を下から上に感じ、その上にあった顔の中にある口が、ニヤけざるを得なかったのである。
自分に残ったはずの余韻、あるいはこの本を読むにあたって自分の費やしてきた時間、労力のほうが、物語を吟味したことより、勝ってしまっている感もある。むしろ、そのほうが強い。だから、ぼくはこの物語の内容を、ここに書けない。
それだけのものでは、ないために。と書くと、それだけのものになってしまう、それも口惜しい。
読んでよかった、とにかく。
この本を読んでの、ぼくの日常生活への影響は、「冗談を、多く言おうと思った」。
土台、現実、他者、まじめ、真剣、神経衰弱、それらの意味の意味を感じたいとする自分は自分として、ぼくはそれらを、ユーモアをもって、相対していきたいと思った。
実際に、できなくてもいいのだ。その思い、その意識がある、自己に持ち得るだけで、ぼくは息を吸うことが、楽になる。
「遅れてきた青年」を読み始めている。