役立たずの役

 先日、喫煙所でタバコを吸っていると、「すみません、火を貸してくれますか」と、人の良さそうな老人に言われた。
「あ、どうぞ、いいですよ」と僕は彼に火をつけた。彼にではないな、彼のタバコに火をつけた。

「どうもありがとうございます」丁寧に老人が言う。
 たったこれだけのことで、ぼくは嬉しかった。こんな自分でも、人の役に立てたと思ったからだった。

 こんな些細なことで嬉しくなるのだから、小さなことで簡単に悲しくなる。
 商店街(といっても人通りは多くない)を自転車でゆっくり走っていると、老人とまでいかない男性が、右を歩くのか左を歩くのかはっきりしない歩き方をしていた。

 ぼくは注意していたつもりだが、右側を通り過ぎようとした。だが、彼は右へ寄ってきたのだった。
 少し小声で、ぼくは何か文句を言われた。同時に、「ごめんなさい」とぼくは謝った。

 その商店街が終わり、右へ曲がる時、今度は女子学生(女子大学があるのだ)のひとりを、驚かせてしまった。
 そんなスピードは出していなかったが、「出会いがしら」というやつだ。ピタッと立ち止まった彼女に、ぼくはまた謝る。

 ケガをするとかしないとかではなく、「驚かせる」時点で、ぼくは精神的に相手を傷つけたような気になる。
 実際、ショックを与えるというところで、同質なのだ。

「チリンチリン」とベルを鳴らし、歩行者を避けさせるのは気が引けて(何のためのベルかね)、前がつまっていたら自転車を降りて転がす。
 ベルの音も、相手を驚かすと思うからだ。
 ただ自分が小心なだけなのだが、同時にそこには傲慢な自分もいる。

「これだけ気を使う自分」を意識し、その自分をまるで「イイコトをしている善人」であるかのように、甘やかすのだ。
 ほんとうの善人は、こんな自分を甘やかさない。

 だから「これだけ注意しているのに」、たまたまの偶然に相手を驚かし、非難の眼で見られると、謝りながら、この「偶然の運命」をうらみたい気になってしまう。

 いつかは、夜、ライトを点けて自転車を走らせていたのだが、前方から来た自転車乗りの若い男に、「まぶしすぎるんだよ、バカヤロウ」と、交差するとき小声で言われた。
 ほんとは気が弱いのだけど、むりに強がりたいような、少しおかしな感じの人だった。

 ぼくの自転車は電動で、確かに明るすぎることは気になっていた。だが、これは仕方がない。

 よくおまわりさんにも「防犯登録の確認」みたいなことで呼び止められるし、通行人にも気持ち的に迷惑をかけることがあるし、あまり自転車は乗りたくない。
 いや、もう数ヵ月、乗っていない。
 歩いた方が身体に良い、という神の声(!)だと思っている。

 人の顔色、てい良く言えば人の気持ちを気にすることは、弱い自分がなせるわざだ。
 自分を、生きづらくさせる。
 歩いていても、自分の不注意で誰かとぶつかったりした暁には、痛恨悔恨、もう死にたくなるだろう。自動車免許は取ったことがないが、取らなくてよかったと思う。

 料理をして、家人が美味しく食べてくれるか否かも、そうとう気になる。
 あまり食材にお金をかけると、快く思われない。でも、イイモノを食べてほしいとも思う。
 どうしたらいいのか、と、何やら深い悩みに落ち込んた気になって、結局愛情がだいじなんだ、と、やはりわけのわからない結論(?)から動き出す。

 何十年も、ご家族のご飯を作り続けている人は、ほんとうにすごいと思う。

 とにかく、ちょっとしたことがあるたびに、一喜一憂どころか、十喜十憂できる、ばかみたいに極端な人間である。
 そして、こんな自分では、もう生きていけない、と屡々思いながら、もう何十年も生きているのだから、たいしたものだと思わなくもない。

 しかし、これも自分の意思ではなく、偶然の運命だと思う。

 それにしても、こうしてつらつら書いている時は、元気である。
 弱い自分が、愛しく感じられてくる。たぶん、「そんなたいしたことではないのだ」ということが、確認できるからだ。

 表現しないで悶々としていると、それこそわけのわからない「漠然とした不安」の魔の手に捕まれかねない。
 やはり「書く」という作業は、自己セラピー作用があるようだ。

「話す」でもいいと思うが、あまり愚痴は言いたくない。
 む、これを読んで下さっている方がいるとしたら、その方に愚痴を言っているのか。
 どうもすみません…