音楽を聴いている時、よく涙ぐむ。
音楽のジャンルにも書いたけど、下田逸郎の唄は、私の身体の細胞ひとつひとつに、くまなく沁みて、情感がゆすぶられる。
私の身体全体が、下田逸郎の唄の世界に、微塵の違和感もなくどっぷり浸かる。
もう、私の中に何もなくなったみたいに。
頭でもない、心でもない、私の身体が、浸かるのだ。
で、たわいもなく私の涙腺がにじんじゃうのだ。
もう、この世界から逃れられない。(麻薬みたいだナ)
モーツァルトのピアノコンチェルト、24番なんかも、かなり来る。
ローリング・ストーンズの古い曲にも、かなり来るものがある。
とにかく泣ける音楽が、私は基本的に好きなようだ。
メロディーは明るく、屈託のないものであっても、その中にあるせつなさ、情感を感じ取ることができれば、もうそれは泣ける音楽なのだ。
泣きたいのだ、私は。
べつに、何が悲しいというわけではない。
生きることそれ自体が、すでにかなしいことなんだから。
だから、私は生きたいのだ。泣きたいんだから。
涙を流すのは、笑うのと同じくらい、医学的に身体に良いらしいが、そんなことは「あるある大事典」に任しておけばいい。
私は、私の細胞を信じていたい。
だいぶ老化?して、代謝が以前ほど活発でなくなったのは、認める。
でも、よくやってきてくれた、と思うし、なんだかんだ元気みたいである。
星空を見て、泣きそうになる。
夕暮れも。
夜が朝に変わるときも。(しょっちゅう泣いてるのかね、私は。)
でも、こういう私を、私は好きでありたい。
しょーがないネ、私の細胞さん、という感じである。
自分に酔うのは、涙ぐんでいる時ではなくて、涙がおさまってしばらく経ち、たとえば寝床に入った時なんかである。
ああ、涙ぐんだなぁ、ということ、その自分がいとおしく感じたりしてしまうのだ。
泣きそうになっている時は、泣きそうになっているだけで精一杯なのだ。
その夕暮れとか星空に対して。
生きることのせつなさを、感じさせてくれるからだと思う。
春先の、沈丁花の香りには、今年も参った。
そしてもうすぐ紫陽花の季節…。
こいつが、また泣かせるんだナ。