何も、医療だけが、その仕事ではない。
クルマのエンジンにしたって、人の命のかかっている仕事である。
食品だってそうだ。環境汚染につながるものだってそうだ。
生きている人間が何かするということは、どう逃げ道をつくろうとも、生きている人間に降りかかってくるものだと思っている。
何もしないのがいい。
何かするなら、自分の信念めいたものに基づいたことをしていきたい。
信念というと、主体的で前向きのような響きを抱かせるけれど、そんなもんじゃない。
「どうしようもなくつくられてしまったもの」が、ぼくにとっての信念である。
今まで生きてきて、出会い、世話になり、つきあってくれた人たちから、ぼくが勝手に受け継ぎ、自分の中に取り込んだもの、取り込まざるをえなかったもの、そこから育み、自分の血や肉になったものが、ぼくにとっての信念である。
そこには、もともと、己の中に土台があったのだ、彼らが、ぼくに与えてくれたものを、拒むこともできず、受け入れられるだけの、同胞的な土台が。
大江健三郎の「われらの狂気を生き延びる道を教えよ」を読んでいる。
これは、確かに難しい。集中せざるをえない。ぺらぺらと読めない。
巻末の頁を見れば、昭和44年発行、現在まで、18刷。18刷?
こんな素晴らしい作品が、なぜもっと読まれていないのか。多少の憤りに似た気持ちをもってしまった。
哲学、というものがある。2000年前からある。生産やら結果やら利潤ばかりを重んじることが、人間は窮極的にはできないのだと思う。
だから、哲学・考え方・心の作用といった「目に見えないもの」は、物理的な裕福さを直接ヒトにもたらさないのだとしても、必要なのだ。
どんなに逃げても、必要になるのだ。
形ばかり重んじる世界のあほらしさを、子ども達はもう知ってしまっているような気がする。
ぼくの子どもは、小学校、中学校と、「学級崩壊」の中で、自分の身を守ることで精一杯のようであった。
悲惨なのは、形にとらわれるしか脳のないような、大人社会のシステムである。
そしてその悲惨の連鎖は、子どもらへ、しっかりと受け継がれていくかのようである。
学校が、この世の社会に必要な人間をつくり出す工場であるなら、それを拒み、授業なんか成り立たなくなって、至極当然のように思える。
子どもらから学べ、「生命を預かる」仕事である筈の、教師どもよ。
さらに、カネばかりに目がくらむ、貧相な為政者、「社会人」よ。
バレてんだぜ。
「考える力」、一見何の役にも立たない無形の力を、自己を掘り下げて、自己の内面へ、内側へ、掘っていこうよ。
井戸みたいに、水が出てくるよ。飲めなくたって、糧になる。
「生きる」ってこと自体、ひとりひとり、「生命を預かる仕事」やってんだ。