介護の仕事の頃(5)先輩と

 結局のところ(今のところ)、些細なことで一喜一憂するな、と自分に命じるのはムリなようである。
 ムリはいけない。ただ、そういう、「こういう自分になりたい」とする目線が自分の中にあるかないかで微妙に違ってくる。
 その視線があるだけで、心理にも微細な影響がある。

 たとえば先回、ここで少し愚痴を書いてしまった。まったく、こんな苦しい職場は辞めてしまおうかと思い、実際に昨日の休憩中、辞める決意をひそかに固めていたのだった。

 だが、私によくしてくれている先輩方もいる。ミーティングの時に、「日勤が怖いです。心が…。(前回書いた女帝的存在のひとに、私は)何やってても文句言われますもん」と弱音を吐いてしまった。

 すると1人の先輩は、「あの人は何年もやっていて自分を基準にしているから、気にしないでいい。Kさんの入居者さんとの接し方は、僕も見習わなきゃいけないと思っている。仕事の覚え方は人それぞれだし、自分のペースでやっていって下さい。何かあったら、いつでも僕に言って下さい」

「そう、まだ1ヵ月もやってないでしょう。あの2人(女帝的存在は1人ではないのだ)は誰にでもそう言っているから、ほんとに気にせん方がいい。Kさん、今日ほとんど完璧にひとりでやってたやん」と、もう1人の先輩。
 もう1人の先輩も、私の尻をぽんぽん叩いて笑っていた。
 今書いていても、涙ぐんでしまう。

 先のことは分からない。一昨日と昨日、昨日の昼と夜で、全く気持ちも変化してしまう。
 それでも、辞めてやるという決意に固執しようとした私は、帰りにロッカーの整理をしていた。
 だが、別のフロアで働く人に声を掛けられた。聞けば、派遣元も私と同じ会社。通勤手段も、私と同じバスを利用している。

 バスの中でも、初対面の彼とあれこれ話した。彼も、「やり甲斐を求めて」介護の仕事を選んだという。ただ、「思い入れだけじゃダメなのかなと思っています」と。

「難しい所ですよね。思い入れがあるから、やり甲斐が返ってくるんだろうし…」と私。思い悩むところは、誰にでもあるんだなぁと思った。だが、自分のことだけに一生懸命になってしまうと、その「誰にでも」が消えてしまうのだ。

 今日私は休みだが、明日はまた2人の、強過ぎるように感じられる先輩と同じ日勤である。
 一憂があって一喜があった。ひとの影響によって、同じ、私の心が芽生えさせたものだ。やはり淡々と、私は私の道を歩みたい。こころもとない、頼りない、この足ではあるのだが…。