もし思想というのがあるとしたら、哲学、そういうものがあるとしたら。
考えること、物事の本質を捉え(ようとし)て、おぼろげに、直感・直観的にそれを捉え、それを捉え(ようとせ)ざるをえない己を抱え、それ故に一点を見つめ、一点を見つめるから周りを、他の数点も見つめざるを得ない。
己に、取り込まざるをえない。
そうして、ただでさえわけのわからない己を、さらにわけわからなくさせる。
で、救いを求めるように人を求める。この己を、「わかってほしい」人を。
わかってほしい。そのために、あなたは飛び上がる、それまで地に着いていた足を広げ、バタバタして、飛び上がる。手を動かし、口泡を飛ばし(だがその唇の端についた泡は拭き取って)、生き生きと相手を見つめ、「さあ行こう」とばかりに手を差し出す。
ひとりでいることに、耐えられなかった。
これは自己欺瞞だろうか。ひとりでいる時のあなたと、相手に向かうあなたは、まるで別人だ。「わかってほしい」がために、あなたはあらゆる手段を尽くす。へどもどすることさえ、演技になる。恥ずかしがって笑うのも、恥ずかしがっていることを「わかってほしい」がために、誇大強調気味だ。
わかってほしい、わかってほしい! あなたは一体、あなたの何を、わかってほしかったのか?
交流したい。ひとと、交じりあいたい。ひとりはイヤだ、ひとりは嫌だ…
あなたの、その己は、体現された。相手に、せいいっぱい、近づいた。
だがもう一方の己は… 片隅で拗ねている、少し羨まし気な、妬むような、ひねた眼をして、上目遣いにじっとこちらを見ている。あなたの部屋の片隅に、じっと座り込みながら。
一方の己は体現された! だが、もう一方の彼は、部屋の片隅で拗ねたままだ。
あなたは満足する。わたしは相手に向かった、他人に向かった、そして交流ができたことに。
だがぼく(かめ)は満足しない。満足しない、満足しなくなるだろうことを知っている。欲が出て、もっとわかれ、もっとわかれ、と己を押しつける… 押しつけようとする、そうしようとする、だって交流ができたのだから!
そうして、やがて相手と己の間に決定的な違いを見い出す。「あなたは、わかってくれなかった」と。
我意のままに、人がならぬことは知っていたはずなのに。
そうして、それほど人を求めなくなる。「わたしが傷つく」のが怖くなって。
だが、そして、だからまた、淋しさの波が。
こいつは、あいつじゃなかったか。
あの部屋の片隅で、いじけるように体育館座りをしていた、あの拗ねた子どもではなかったか。
ぼくは、こいつと仲良くなろうと思った。こいつと、…こいつに近づいて、一緒に、やっていきたい、やっていこうと思った。
こいつとぼくが、親和する。
そうして、そこから初めて、「外へ」行く。知らない人と、交流する。
こいつと一緒に、この子と連れ添って── この子に連れ添われて、つまり、こいつと一緒に。
ぼくはもうバタバタしない。飛びあがることもない。宙ぶらりんかもしれない。
でも、そんなふうに、人と交流できたらと思う。願い、願望か。