今一緒に住んでいるひとの実家に行ったのは先々週だったか。
自分は行っていいんだろうか、という気持ちがあった。今も、どこかにある。
パートナーの父母でなければ、ぼくには全く関係のない、知らない他人であったからだ。
だが、今一緒に住んでいるひと、このひとを生んでくれたのが、このご両親である。
このご両親がいなければ、ぼくはこのひとと一緒に暮らしていない。一緒に暮らせること、この彼女の存在が、ぼくにとって掛け替えのない存在であることをぼくは知っているつもりだ。
そして彼女の実家に行く。お義父さんは、ぼくを気に入ってくれているらしい。お義母さんは、認知症がかなり進んでいるから、よく分からない。
自分にムリをしないよう、交流をしよう、とは心掛けている。
沈黙が気まずい時もあるが、お二人にとってそれが自然であるならば、ぼくがひとりで気まずさを感じているにすぎない。
何もムリして、話題をつくらない。
自然に、ああ気持ちのいい風が入って来る、とか、ああ、サラダ、美味しい、とか、そのままのことを言う。で、話は自然に流れていく。
ぼくを生んでくれた両親は、もう他界している。親不孝だったという意識、ろくなことをしてこなかった意識が強い。だから存命中も、あまり実家に帰らなかった。
胸に来る度合──義父母と、実父母とでは、これが全く違う。
ぼくは、義父母の人生の途中から現れた人間だ。
だが、考えてみよう… 大体、途中から出逢った人間のほうが、圧倒的に多いことを。いや、途中からしか、出逢えないのだ。
言葉にすれば「義理の」という、何だかいやらしい形になるが、ぼくにとってやはり特別な存在である。
いのち、いのちって何だ、と思う。
義理とか義務、そんなものではない。
自然につながるもの、つながっていくもの… いのちの循環?
親子とか、うまれた場所とか、そんなものは関係なく。
回っていくもの、線と線がつながって…
否応もなく、つながっていく、空に浮かんでいくように、浮かんでは消え、浮かんでは消え…
どうしてか、そんなイメージがうつつに浮かぶ。