人の目、自己の目

 世の中のことはよく分からない。人のこと、自分のことも、分かっているとは言い難い。

 私に分かるのは、今自分がどんな気分であるのか、ぐらいである。

 何一つ、他に、何か「わかる」と確言できるものがない。

 生理的なものによって、身体から「知らされる」ことはある。

 しかしそれもこの身に限ったことであって、それで世界がひっくり返るほどのものではない。

 腹が減った、喉が渇いた、暑い、寒い、よく眠れた、眠れなかった、頭がはっきりしているな、夢の中を歩いているみたいだな。せいぜいその程度のものである。

 そして時間が経てば、何やら「やるべきこと」が出てくる。いや、出てくるのでなく、「あった」ものだ。時間が、そこへ行ったのだ。

 朝のゴミ出し、夕食の支度。それに伴う起床、買い物。

 まるで時間に急かされていそうだが、これは私の時間なのだ。

 これも、これも、私の時間であって、特に他に、誰もいないのだ。誰の時間でもない、「私の」時間なのだ。

 洗濯物が溜まればする。した方がいい時にする。掃除もする。「やろう」と「やらなくちゃ」が一致したような時、私は「やる」。

 だが食生活── これは自分の中で義務化している。パートナーがパートに出掛け、日銭を稼いでくる。せめて私は、彼女の体調、身体をつくるはずの「食」の充実に心掛ける。

 いわゆる「主夫」である。いちいち名乗る必要もない。だが、世間はあまり、「主夫」に対して馴染みがないように見える。

 いくら女性の社会進出とか、男女平等とか、けっこう前から言われていることだが、なかなか心許ない。

 これはべつに社会とか、そんなせいではなく、自分の問題だと思う。自分の中に、どこか「引け目」があるのだ。「フツウは」が。「みんなは」「多くの、大概の人は」が。

 明らかに、何か性差的な、言えば差別的な発言をしてきた者には、ぼくは怒るだろう。

 こっちにはこっちの生き方がある。俺があんたにどんな迷惑を掛けた? 男が家事をし、女が外で働く、これがそんなに奇異なことか? 女は、とか、男は、とか、その時点で、おかしいよ。あるのは個人、個人じゃないか。

 と、そんなこと言ったって、仕方ないように思える。わからない人には、何を言ったところで、伝わらない。

 まして、ずっと「男は外、女は内」で人生をやってきた人であるなら尚更だ。

 違う生き方を認めることは、自分を否定する、今までの自分たちの生き方を否定することになる。いや、そこまで考えてもいないかもしれない。ただ「違う」から、目についてイヤなだけのようにも思う。

 といって、何もぼくは、近所から何か言われたわけでもない。ただそんな空気を感じる…この空気は自分の自意識に端を発する…ように思える。

 まじめな人が多いように思える。ほんとにみんな、同じ顔をしている。似たような顔をしている…

 まあ、仕方ない。こう思う、感じる自分はぼくであるし、同じように相手も、何か感じるであろう。何か考え、こんなに考えているのは自分だけだ、と、相手も思っていたら面白い。

 たぶん、たいていの人が、他人のことなど興味はない。ぼくだって、きっとそうなのだ。自分に関することだから、やたら気にしている、気になるだけなのだと思う。

 一体、何を思い悩んでいるのやら。この自縄自縛癖、何とかならないかと思う。

 そして、だが、本気で何とかしようと思っていない。自分のことぐらい、自分で縛って当然だろうと思う。ただ、なかなか「ほどほどに」できない。強迫観念症とか、コミュ障とか発達障害とか、病院に行ったらぼくは、病気の宝庫になるかもしれない。

 いいではないか、宝庫。宝の、蔵ぞ。と思いたい。