幸せな状態

 昨夜、何となく書き始めて、「困る」ということの情態についての詳細は表現できたつもりでいる。

 そう、困る、これはまだ余裕があるということ。

 ぼくが恐れるのは「衝動」で、「困る」余裕も余地も失くす。

 思考が入らない状態、要するに理性がブッ飛んだ状態、感情にのみ身体が乗っ取られた状態、と言えるだろう。

 これは、ほんとうに恐るべき状態だ。

 喜怒哀楽、この全ての感情が、この恐るべきものを孕んでいる状態であるかもしれない。

「狂気の沙汰」をつくるのは、この感情によってのみ身体が支配された状態であろう。

 爆発は、周囲に被害が及ぶ。

 穏やかな微笑、春の海のような存在にもなれるはずなのに。

 それとは真逆の、凶暴な人格が、一人の人間から発せられる。自分も、おとなしく、穏やかな性格に見られがちだが(だからよくナメられる)、怒ったらほんとうにキレる、その一歩手前まで行くことがよくある。気をつけなければならない。

 怒りの感情は、ほんとうに厄介だ。そして、何にもならないのである。自分の子どもに対して、あまり怒ったことがない。いや、一回もない。

 これはしてはいけないことだ、と注意を促す時は、いったんその気まずさ(子と僕の間に流れる)に黙す。子を、じっと見る。それから一度話題を、直接的なものからちょっとナナメの方向へ転じ、僕は何か話し出す。

 すると子も、直線的な感情、一つのことに捉われた心のようなものから、いったん身を引くようだった。

 そして、そのナナメの方向から、僕は自分の考えを言った。子に、わかるように。伝わるように。

 すると子も、わかったような、わからぬような、でも平静を取り戻すような感じになって、何となく会話、話がすすんだ。

 これは、ごまかしかもしれない。僕は、アッ!と最初感じたものを、ア、のまま子に向かわなかった。イウエオ、を言い始めるのだ。カキクケコ、だったかもしれない。

 でも、こちらの思いのようなものは、伝わっていたと思う。たぶんこれは、親子関係に限らず、人間関係全般に言えること、と言ってしまっていいかもしれない。

 そこできっと弊害になるのは、その相手に対する先入観、「コイツはこういうヤツだ」という観に捉われた、自分自身であろう。

 相性が悪いとか、合わないとか、そこから始まってしまった関係は、何としても難しい。

 そう、僕は特に思い込みが激しく、思い込みだけで生きてきたような人間だから、この手の人間関係にずっとつまずき続けている。何とかしたいと思う。

 だが、きっと何とかしないで、むしろ何もしない方がいいんだ、と思う、自分に対して──だから相手に対しても。

 何もしないでいいのだ。何かしようとするから、はからいが生まれ、下心が生まれ、またその反動によって自分の気持ちが揺れ動く。浮かび沈み、沈み浮かぶ…

 まるで、そのうまくゆかない相手のために、自分が生きているかのようになる。それだけ、まるでその憎らしい相手を愛しているが如くに、その相手のことばかり考える。夜寝る前も、朝起きても、「彼がいる」と思うだけで、悩ましくなる。

 たった一人の、気に食わぬ相手がいるだけで!

 これについては、ほんとうに手を焼く。

 相手に対してではない、相手を取り入れた、相手に捉われた自分自身に手を焼いているのだ。

 僕に限って言えば、その対処法は… 結局、書くことになる。

 けっこう、悩ましいこと… 困ったこと、考えるとつらいこと、を文章にして書く。そしてそんな時の方が、よく書ける。まったく本人(自分)はつらいだけなのだが、そのつらさ、原因のようなものが、だんだん見えてくる気がする。

 救いを求めるように、書く… まったく救われない、どうしようもない時であればあるほど、よく書ける、気がする。

 真剣に考えているからだろうと思う。つらいのだ。だから、何とかしようと足掻くのだ…

 ほんとにその時はつらいばかりだが、なんだか書けた、というところで、慰安のようなもの、できることをほんとうにした、というような、そんな気になるようだ。

 あまり、ありがたくないつらさだが、おかげで書ける、真剣に、ほんとに真剣に考えて書けるというところでは、ありがたいものであると思う。