久し振りに髪を切りに行った。
客の待つソファの上で、奥さんが座ったまま熟睡していた。
客がいないということである。
「こんにちは」ぼくが言う。
奥さんは起きない。
大きな声で、「こんにちは」もう一度言う。
奥さんが起きる。
「すいません、寝てるところを…」
「いやー、お腹がよくなると、眠くなっちゃって…」
水曜日の午後。
奥さんがぼくの髪を洗う。
そのうち、主人が店に出てくる。
ぼくを見て、「はい」と言う。
ぼくは「こんにちは」と言う。
「どうしましょう」と主人が訊く。
「ブルース・リーみたいにして下さい」とぼくが答える(小学生か)。
「暑いねぇ、今日も」
「そうですねぇ」
しばらくすると、奥さんが何か持ってきた。
「これ、忘れないで持っていって下さいね」
キャベツである。
「ああ、すいません。前は、ナスを頂いて…」
「運がいいわよ。いつも、何かある時、来るから」
「農薬使ってないから、甘くて美味しいよ」主人が言う。
この理髪店の主人は、腕はもちろんのこと、人柄がいい。
だいたい理髪店に行くと、カット中に何やら話しかけられるか、なんとなく緊張感のある沈黙があるものだった。
だが、この主人は違った。
もう数年ぼくは通い続けているけれど、最初から、「どうしましょう」と訊かれる以外、ムダな口を一切きかなかった。
そして、そのカット中の沈黙も、いたって自然な感じで、妙な緊張感が全く感じられなかった。
ぼくはとても心地よくカットされ、シャンプーされ、ドライヤーで乾かされた。
なんとなく話をするようになったのも、近年である。
「もう、ここを知っちゃってから、他のお店行けませんよ」
ぼくは自然に言える。
「ああ、そうかね(笑)。そう言ってくれるお客さん、多くてねぇ。わざわざ遠いところから来てくれるお客さんもいて…」
「腕だけじゃないですよね。お人柄というか、話、しなくても、伝わるものがあるというか」
「うん、そうそう、相性いうかねぇ、1時間くらい、時間を共にするわけだから…」
主人は、60は過ぎているはずだが、黒いTシャツやピンクのYシャツがとても似合う。
佐藤慶をやさしくして、ちょっぴり男前にしたような顔立ち。
温厚、というのは、この人のためにあるのではないか、というくらい、ほんとうに温厚な人である。
以前ぼくは「サッカーのナカタみたいにして下さい」と言っていた。
ナカタといえば、スポーツ刈りとまでいかないまでも、けっこうな短髪だった。
あの髪型を、バリカン等を一切使わず、ハサミ1本で仕上げてくれた。ぼくは感服した。
「こっちに引っ越してきて良かったのは、ミナミさん(この理髪店の名前)があるのと、すごそこにユタカって魚屋さん(前記したお魚屋さん)があることですよ」
嘘偽り無くぼくは言う。
「ああ、ユタカさんねぇ。刺身が美味しい」
主人が笑って答える。
いつまでも元気で、ぼくの髪を切ってほしいと思う。