私は私の体験(想像をふくむ)からしかモノが言えないので、そのように書いてきた。
これでも人間のハシクレであるので、一人、いち・びととして、ひとりの、ひとりから始まる生、そこにはいろんな人、事象も現れたが、結局のところ「私」が見・感じたところから書くことで── 「人間研究」といったものの一つの材料、研究のお役立ちにでもなれば、とモンテーニュよろしく考えたものだ。
だが、それは失敗に終わったようである。失敗というと悲しいことだが、実は失敗とも思っていない、思っているがホントウには思っていない。
「その時できることをする(考えることもふくめて)」を至上のようにして、それしかできず、やってきたのだから。これは救いようもなく、後悔のしようもないことだ。
私は反芻する。牛のように。そこから反省というより後悔はする。それも、些細なことで。以前まんじゅう屋で、私の後ろに三人の外国人観光客がいて、私はまんじゅうを二つ買った。すると、残った売り物のまんじゅうが二つになった。
「Oh…」と、小さな声が聞こえた。三人の外国人観光客は、三個、まんじゅうを買いたかったのだ。
だが私は無情、非情にも、二個買った。一個でもよかったのだ、べつに。
彼らにまんじゅうを譲れなかったこと、このことが、ずっと後悔のモトだったりする。
こんなふうに、私の後悔は実に些細なことなのだ。だがこの些細も、塵も積もれば… そのまんじゅう屋での後悔はこの一件だけだが、ほかにも、たとえばあと一分遅れて家を出ていれば、とか、こっちの道を歩いていればとか、この服を着て行けばとか、取るに足らぬようなことでしょっちゅう後悔する。
いわば、些細な運命に対して後悔する。
だが、そのモトとなっている私、私自身についての後悔がない。
言動、おこない、態度、それらのことには後悔する。だが、そのモト、モトのモトである私自身についての後悔はない。
こう書くと心細くなるが、やはり後悔はない。ほんとうに後悔する時は、自殺する時のように思える。(この極端さよ)
何が言いたかったんだっけ?
忘れた。