「存在の耐えられない軽さ」

 昔、そんな映画があったが、そう、存在はそもそも軽いのだ。

 雲みたいに軽いのが、存在のモト、と言っていいのではないか。

 万物の起源は、おそらくそうであろう。

 ところが人間は、なまじ知恵をつけた。知識、知力などといって、お笑いぐさもいいところだ。

 自らその存在を重くさせ、罪だの救いだの倫理だの道徳だの、けたたましい。

 耐えられなくさせているのは、人間自身ではないか。ばかばかしい。

 軽いままでいいんだよ。もともと軽かったんだから。

 ただし、人間に生まれてきた以上、仕方がない。重さを経てから、軽くなってもらおうか。

 ハナから軽いんじゃ、それは運命にそぐわない。

 生まれてきたことを不幸と思え、とは言わない。が、不幸だの幸福だのを感知する能力(要らぬ性能!)を人間は持ってしまったよ。ならば、も一度、ゼロ、無、のところ── 雲みたいなもの、つかみどころのない、つかめないものへ、行ける足も有しているはずだ。

 重さを経てから── 重い重い、手枷足枷、自縄自縛の人間自身から── 少なくとも個人は、脱することができるはずだ。

 酸いも甘いも、あの苦しい、つらい時間の存在を知って、その上で、も一度軽くなれたなら── ひょっとしたら、けっこう幸せな、「人類」(個人個人の集団の総称)の未来図が開けるかもしれないね。