藤原新也「丸亀日記」

 義姉の四十九日に参列、そのまま五日間板橋滞在。
 発つ際、面白いですよ、と兄が用意してくれた藤原新也の本五冊も荷の中に。

 新幹線車内で「丸亀日記」を半分ほど読んだ。
 藤原新也は二十歳の頃に「ムンクへの旅」を読んで以来。

 この「丸亀…」は完全にエッセイで、まあ実に面白い。一人ずつ、空席をあけて座る車内で、ひとりニヤけながら読んだ。

 芯のある人だ。チャンとしている。あちこち海外へ旅をしているから、いかに日本がバカげた国であるかも、やさしく訴えられた気がする。ぼくにとっての確認だ。村上春樹なんかよりよっぽどいい。

 1988年に発行された本で、このころのエッセイでは黒井千次の「夜更けの風呂場」を図書館で借りて読んだ。近所のことばかり書いているようで、これは途中で挫折したが、何かこの国(人)がおかしな方向へ向かっている、ということはこの本からも感得した。

 藤原新也の目線、書き方は、黒井千次のそれが自分に重きを置いているのに対し、よりしっくり来る、面白いものだった。体験を書いていることは同じだ。でも、読んでいるこちらも著者の目線に立て、その感じ方にすっかり同意できるのは「丸亀日記」だった。

 そうだ、エッセイって、こういうものなんだよなぁ、とこれまた確認した。

 池田晶子の「人間自身」は読めていない。云いたいことが自分と似ている気がする。藤原新也も、読み手であるぼくと気質の点で似通ったところがあると思える。それなのに、「丸亀日記」は読みたいと思い、「人間自身」は読みたくないのは何故だろう。

 本の質、書いた人の質。読み手であるこちらの質。似ている点、共感点は同じであると思えるのに、読みたい、そんな読みたくない、となるのは何故だろう。

 もっと自分の中に取り入れたい、と思うのと、いやもうそんな取り入れたくない、と思う対象の違いは何だろう。