攻撃性と

 昨日は瞑想がうまくできず。何か胸の中がとんがって。
 セリーヌの作品は攻撃性に溢れているように見える、それに触れるとこちらも何か言いたくなる、書きたくなる。
 対して、瞑想なんかは心鎮まってないとできぬもの。全く、相反する自分ってやつがこの一体の中でくすぶって、時間の使い方、自分がどうするかが決定されていくわけだ。
 体現させるやつが、心持ちであることは間違いない。身体の調子そのものはどうしようもない体現、そのままだ。そのままを、そのままにしておく、それが瞑想ってやつだとしたら、書くなんて行為はずいぶんな行為だ、不自然な、言語に置き換えるってやつは!
 
 書くなんてしないことが、一つの理想だ。ココロ・シズカニ、何もせず、じっと、何もせぬがいいよ。
 これも習慣なんだ、悪しにつけ、良きにつけ… 悪しはわかる、良しがよくわからんが。
 セリーヌの燃えるような情熱、この世への宣告、呪詛! しかしこれがなかったら、静かな気持ちにさえなれないだろう。
 攻撃性と対するものは何だ、受動性、消極性? 瞑想の場合は、どっちでもない。ただ観ずるのみだが。
 まったく、言葉には無理がある! そいつで交信、やりとり、関係をつくる… それ以上のものを感じながら。それ以上のものは言語化を拒否する! 人間族に不幸があるとしたら、それ以上のもの、感じていることこそに真実(これもあればの話だが、あるとしたらそういう時であるということだろうが)、感じていること、それだけでは済まされない、こいつの下で、それ以上でない以下のところで、不完全な言語を駆使せにゃならんことだ…

 そのうち人間はテレパシーで交信できるようになるんじゃないかな… 昔、交際していたひとが、そんなことを言っていたが。
 何も言わぬがよし、言うなら全て冗談がよろし! 何も書かぬがよろし、そんな時間があったらば、ヒトリ・シズカニ瞑想に耽るがよろし。でもなんで書く? 習慣だ…