現代の「文学」と呼ばれるジャンル… なんとか賞、かんとか賞、毎年! あるが、またベストセラーとかいうもの、いまだにあるのかどうか分からないが、そういうものに選ばれた本に、あまり興味がない。
何度か読んだものは、実に薄っぺらかった。面白くないことはない、ただ、あ、そう、という程度の読後感しか残らない。ごまかし、わかり易さ、「やさしさ」、「せつなさ」、ばかばかしいほど軽薄だった。こういうのが読まれる、というのはよく分かる。ぼくに確認できたのは、それだけだった。
自動車工場で仲良くなった友達が、「あんな賞なんて、商売、いかに注目を集めるかでやってるんでしょ」と言っていたが、あの年は80歳?とにかくご高齢の方と、かなり若い方の二人が受賞した年だった。特にモノなんて書いていない彼が、有名な文学賞に、そんな疑いの目をもっていたことにびっくりした。
また、ある会社の会長?みたいな女性とよく飲んでいた頃… といっても飲んでいたのはぼくだけで、彼女は酒はやらなかったが…「今の文芸雑誌は全然読みませんね。昔は(大江が元気だった頃…1970年代?)よく読んでいたけど」。うん、ぼくもそうですよ、と大いにうなずいた。
ぼくの父は自宅で校正の仕事をしていたが、その遺された日記に「今の本は軽い。軽すぎる」と嘆くように書かれているのを見た。まったく、何もない、ただ肌をなめて通りすぎる、一瞬の風のような本ばかりなんだ。
16話で「本は人を選ぶ」(誤字脱字が二ヵ所見つかったので直した)を書いて、ああ言い忘れたことがあった── それは、べつに、不朽の名作とかいわれるもの、生きてるうちに一度は読まねばならぬ本!といわれるような本が、こっちに何も響かなくたっていいのだ、何も、名作=素晴らしい本、なんて法則はないのだ、合う、合わない、それだけだ── ということだった。
しかし本を読む、何か書くなんて、不健康極まりない行為だ! 眼に悪いし、身体に良いことはない! 精神には大いに栄養を与えるだろう、それが身体を立たせるものなら、読書もすばらしい。自己を律するものであるなら、自分の足を鍛えるものであるならば!
大江が最後だった、ぼくが生きている作家で読みたかった本は。心から読みたいと思った本は。あとは、もう。