生活と

 しかし文章を書いていると落ち着く。自分にとって、かけがえのないことだ、書く、書けるということは!
 それも苦しさがあってのことだ… 昨日の夜は久しぶりに眠れなかった。小説らしきものも書いたが、つまらないので消した。合う・合わないがある、エッセイに向いた人、小説に向いた人… ムリして書かないことだ。
 ブログでやたら書いていた頃から今の今まで、たえず、自問の波が訪れる。なぜ公開するんだろう、という。
 こんな日記みたいなものは、ひとりで書いてりゃいいだろうに。誰にも見せず。そんなニーズがあるとも思えない。どうしていちいち公開するんだ…
 音楽評論家の吉田秀和の言葉も思い出す。《 曲ってのは、どうしても書かなきゃいられない人が書くべきで、そうじゃない人はそんな書かなくてもいいと思うんです》
(ああ、これも自己都合、自己正当化に繋がる言葉だ、だからこんな言葉ををいちいち持って来るんだ)… でも吉田さんは面白い、またこんなことを言うと、よくないかもしれませんね、余計なことを言いました、とチャンと付け加える。そして、じゃ、モーツァルトのディヴェルティメント、変ホ長調、ケッヘル…と曲紹介に入って。

 ブログついでに、今ぼくが「ノベルデイズ」と同じ記事を載せているブログ「希望と絶望の間に」は、始めてよかったと思っている。
 なんだかんだ読まれているみたいだし、やっぱり読まれると嬉しい。「村」とか、何かの媒体に入っていないから、好き勝手に書ける。コンピュータ音痴のぼくが、ワードプレスでひとりでつくった… そこに書いたのを、ノベル…に持って来ることもある。書く際の気持ちの問題で、ブログに書くかノベル…に書くか、だいぶ違ってくる。ほんとに気持ちの問題だ。
 気持ちで、ほんとうに変わってくる。書き方、内容、文体、この向こう側にいるはずの「人」への接し方、それに向かうこちらの気構えのようなものが。
 日常生活も、それと変わらない…