モーツァルトの楽曲を指揮者が楽団を率い演奏する。
ワルター、ベーム、カラヤン、フルトヴェングラー、トスカニーニ、etc,etc。
その都度、同じ一曲が違った味になる。
これはその指揮者の「解釈」と言っていいだろう。
モーツァルトの楽譜は変わらない。それでも一人一人の解釈によって味が変わる。
一人の同じ指揮者によっても、その演奏時期によって演奏が変わる。
ワルターは二回、「フリーメーソン」を録音しているが、どちらも違った味になっている。
カラヤンの「モツ・レク」も、ブレンデルのソナタもアルノンクールの25番も、「あの時はこう解釈してこうなったが、今はこうだ」とでも言うように。
聞き手も、その違いを楽しめる。たった一つの同じ楽譜が、今までどんなに違った形になって来ただろう!
人と人が理解し合う… それは解釈の一致をみた時に限定されるのかもしれない。
相手のことを理解する・しないではなく… 一つの生命があるとして、その生命に対する解釈なのかもしれない。
だが解釈、それはまず頭でするものではないだろう。頭からスタートするものではないだろう。
指揮者がその棒を振る時、はじめて楽団員に「こういう音を」と求め、それが形になっていく時、一致点をみるのだ。
それを形にする時、相手にどう伝わるか・伝えようかとする段になって、はじめて頭は動く、態度になり言葉になり、伝達手段を考える・考えざるをえない時に。
楽団員も指揮者も、たった一枚の楽譜を紐帯にして。
人一人の身体をみれば、その中に様ざまな臓器、心、精神と呼ばれるものがある。
かれらはそれぞれのパート、役割をもって、その働きに従事する。
〈私〉はかれらを率いている。
かれらによって生かされているが、かれらのマエストロでもあるのだ。
一人一人が、すでにそうなのだ。
それを壊すものがある… 一人一人をでどころに。
壊すものが〈存在〉する… 憎しみや嫉妬、「理解されない」「思うようにならない」恣意、我意、執着、我執に導かれ。
平和で穏やかなものは、それらが達成されなければ得られないなんて、おばかなことだ。歓喜、嬉しさ、悦びは、恣欲が達成されなければ得られないなんて、おばかの極みだ。
一人一人が自分自身とうまくやれば… よく率いれば、この一人のための指揮者になれば… そこでは技巧的なものも、理解・解釈といった頭も必要なく、奸計も悪だくみも必要でない。
ここは文章、ひとりで書くところ。日常の生活舞台も基本は同じだが。
自分にしかいない楽団員たちとうまくやっていけば。
一人一人の平和から、世界は。一人から、世界が。